権威について。

ダニエル記7章13~14節 (旧1393頁) マルコによる福音書11章27~12章12節 (新85頁) 前置き イエスは3年間の公生涯、つまりキリストとしての地上での御業を終えてご自分の体を十字架での犠牲として神に捧げるためにエルサレムにお入りになりました。主はエルサレムに到着して、一番最初に神殿に足を運ばれました。神殿はイスラエルの信仰の中心地だったからです。エゼキエル書43章には「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」と記録されていますが、神の真の栄光であるイエスは、この言葉のように神殿に臨まれたのです。しかし、神殿では誰もイエスをお迎えしませんでした。祭司たちが一番先にイエスの到来を知り、主を迎え入れるべきだったのに、むしろ彼らはイエスが来たことも知らなかったかのように無視していたのです。いや、かえって彼らは自分たちの宗教的な既得権を否定するイエスを憎み、嫌がる存在でした。翌日、イエスはまた神殿に足を運ばれる途中、実はなく葉っぱだけが茂ったいちじくの木を呪われました。これは神殿の存在理由を失い、宗教的な偽善だけが残っていた神殿と宗教指導者たちへの主のお裁きを象徴する行為でした。また、イエスは神殿に入られ、祭司たちと結託して商売をしている商人たちを追い出し、叱られました。神の御心を成し遂げるために来られたイエスは「祈りの家」という本来の機能を失った神殿を清められたのです。そして、イエスはご自身が神と人との間を執り成してくださる真の神殿となるだろうと教えてくださいました。 1。イエスの時代の宗教指導者たちの実状。 「一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(11:27-28) イエスが神殿の商人たちを追い出されると、彼らと結託して不正蓄財をしていたエルサレムの宗教指導者たちがイエスのところに来ました。そして「何の権威でこんなことをしているのか?」と問い詰めました。ある新約の学者は、彼らがイエスに「何の権威」と云々したのが「君はどの学派の所属なのか?」という意図の言い方だったと話しました。当時には様々なラビの学派があって、学風にそって学派も分かれていたそうです。そして、学派別にそれなりの正当性があったようです。つまり、宗教指導者たちはイエスの正当性を傷つけるために、どこの所属なのかと尋ねたということです。考えてみれば、牧師の世界にもこういう傾向があると思います。「私は00教派所属の牧師です。」「私はXX教派所属の牧師です。」など、相手がどんな神学を学び、どんな性向の牧師なのかを確かめるためです。そして、自分が属している教派を前面に出し、自分の神学的な正当性を密かに表すためです。今日の本文の宗教指導者たちも「何の権威で」という表現で、どこにも属しておられなかったイエスの権威を傷つけ、自分たちの正当性を高めようとしていたわけです。 前の説教を通して、何度もお話してきましたが、イエスの時代の宗教指導者たちは純粋ではありませんでした。祭司長たちは見た目は宗教家であるだけで、精神的には世俗的すぎで、神への真の信仰、復活への希望を失っていました。復活への信仰を失ったため、神の永遠のご統治と御導きも信じていませんでした。彼らはただただこの世での繁栄だけを大事にしていたのです。そういうわけで、彼らは政治、財物、権力に執着するようになってしまいました。律法学者たちは、律法の真の精神、つまり神と人への愛を失っていました。彼らは行いによる救いを信じ、人々の前で自分の宗教的な優越性、つまり自分の義を示すことを楽しんでいたのです。律法を通して民を正しく教え、愛の実践へと導かなければならなかったのに、彼らは律法を悪用して人々を判断し、他人を罪に定めたのです。長老たちは、民の模範にならなければならない人々でしたが、祭司長、律法学者たちとともに政治的、宗教的な権力を欲しがっているだけでした。祭司長、律法学者、長老、すなわち今日イエスの権威について問い詰めた人々は、サンヘドリン公会という当時のユダヤ最高の権力機関だったと推定されます。彼らはユダヤの民衆を神へと導き、聖書を正しく教え、指導しなければならない宗教、社会、民族の指導者たちでした。そんな彼らが神の神殿を用いて自分たちの私利私欲だけを満たそうとしていたということから、当時のユダヤ社会の問題点が明らかにされます。イエスはまさに神殿で、このような問題を見つけられ、叱られたのです。 2.主イエスの権威 宗教指導者たちが、イエスの前で権威について話した理由は、自分たちの宗教的な正当性を高め、イエスの正当性をおとしめ、困らせるためでした。しかし、主はその計略に巻き込まれず、むしろ問い返されました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(11:30)ヘロデ·アンティパスの暴挙により、悲惨になくなった洗礼者ヨハネ、群衆は彼を神からの預言者だと信じていました。宗教指導者たちはイエスの前で自分たちの宗教的な正当性のために「権威」について問い詰めましたが、イエスは群衆が預言者として信じる者、そして、イエスに洗礼を授けた者であるヨハネと彼の洗礼が持つ権威について問い返されたのです。「ヨハネは神からの預言者としての権威を持って洗礼を授けた。そして、私は彼を通じて神が認められた権威ある正当な洗礼を受けた。だから、私の権威もヨハネのように神にいただいたのだ。あなたたちはこれについてどう思うのか?」と問われたわけです。イエスの出身を取り上げて脅迫し、自分たちの正当性を高めようとしていた宗教指導者たちは、イエスのご質問に困ってしまいました。洗礼者ヨハネの権威が天からのものだと言えば、彼を排斥した自分たちの正当性を自ら損ねるさまとなり、洗礼者ヨハネの権威が人からのものだと言えば、群衆を刺激することとなり、また自分たちの正当性が損なわれるため、いずれにしても困難な答えだったのです。 「そこで、彼らはイエスに、分からないと答えた。すると、イエスは言われた。それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(11:33) イエスはご自分の権威を守りながら、宗教指導者たちを戸惑わせることで、彼らの質問から抜け出されました。そして、12章の「ぶどう園と農夫」のたとえを通じて、宗教指導者たちの問題点を暴かれました。たとえの中のぶどう園の農夫たちは、主人を本当に愛し、仕えていませんでした。彼らは主人のぶどう園を利用して自分たちのよこしまな利益だけをたくらみ、結局、主人のものを奪い取ろうとして、主人の僕とその息子まで殺そうとしました。まるで今日のぶどう園のたとえの中の農夫たちのように振舞っていた宗教指導者たち。彼らが権威を云々したのは、ぶどう園として表現された神殿を奪い取り、自分たちの歪んだ権威を用いて私利私欲を満たすための言い訳だったのです。彼らは権威を言い訳にし、神の栄光と神への信仰とは、まったく関係ない自分たちの利益と欲望のために神のもの(神殿)を悪用しているだけでした。だから、イエスは当時の宗教指導者たちの不信仰と悪を「ぶどう園のたとえ」を通して告発されたのです。ここで私たちは果たして「真の権威とは何か」について考える必要があります。ユダヤの宗教指導者たちが、あのように重要視していた権威。聖書が語る真の権威とは一体何でしょうか。 3.真の権威について。 今日の新約本文に記された権威という言葉は、ギリシャ語の「エクスシア」を翻訳した表現です。エクスシアは「権威」という意味とともに「権勢、権能、所属、源」などの意味をも持っていると言われます。つまり、エクスシアとは、上から押さえつける水平的な力のイメージを持っています。宗教指導者たちがイエスに「何の権威で」と尋ねた理由は、自分たちの世俗的なエクスシアを強調するためでした。「君の所属はどこか? 君は私たちが認めるべき者なのか。 私たちより上にいるのか。私たちより下にいる者ではないか」という意味で問うたわけです。彼らにとって権威とは、神に由来する権威という意味合いではなかったのです。主導権を握るための世俗的な上下の意味で聞いたのです。自分たちがイエスより上にいる優越な存在であるということをアピールするためでした。しかし、主は天からの権威について語られました。「私は神が洗礼者ヨハネに与えられた権威、それ以上の権威をいただいている」と暗黙的に示されたのです。今日の旧約の本文を見てみましょう。「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14) ダニエル書は、人の子のような者について神からエクスシア(権威)をいただいた者と語りました。つまり、メシアの権威は神がくださったということです。真の権威は、今日の宗教指導者たちが口にした世俗的な偉さを意味するものではありません。宗教指導者たちが考えた権威とイエスが言われた権威は、その性格が全く違うものだったからです。当時の宗教指導者たちの権威は、神が認めてくださらない、群衆が納得しない自分たちの欲望ための世俗的な権威でした。そのため、宗教指導者たちは群衆の反応を恐れていたのです。しかし、主イエスは神も群衆も認めることが出来る真の権威について語られ、イエスご自身がその神からの権威を持っておられたのです。権威とは、人間が作るものではありません。ある人が誰かに与えるものでもありません。権威はひたすら神に由来するものです。権威の真の主人は神おひとりだけだからです。したがって、私たちも自分に権威があると思うなら、それを前面に出して威張るより、果たして、自分は神に認められる権威を受けているのか、もし、そうであれば、自分は神からの権威を正しく取り扱っているのかを考えてみるべきだと思います。 締め括り 権威は神からいただくものです。私たちは、常に真の権威とは何かをわきまえて生きるべきです。教会に長く通っているからといって権威が高く、出席してわずかだからといって権威が低いわけではありません。主なる神の必要であれば、主は誰にでも権威を与えてくださり、権威をいただいた者は、謙虚にその神からの権威を正しく使うべきです。そうでなければ、今日の宗教指導者たちのように、権威を世俗的に悪用してしまうからです。現代の政治家たちを考えてみましょう。彼らは自らが権威者であると思い、国民を軽んじてしまう場合が多いでしょう。それは真の権威の使い方ではありません。皆さん、金牧師を志免教会の権威者だと思わないでください。牧師が持っている権威は、神がくださった御言葉の権威を述べ伝えるための道具にすぎません。牧師に権威があるわけではなく、神の御言葉に権威があり、牧師はそれを支えるだけです。長老、執事の皆さんも自らを志免教会の権威者だと思わないようにしましょう。皆さんの務めに神からの権威が置かれ、私たちはその権威のために仕えているだけです。将来、誰か志免教会の長老、執事になられれば、その権威が君臨のための権威ではなく、奉仕のための権威であることを忘れないでください。真の権威者でおられる主イエス·キリストが、ご自分の権威の責任を果たすために十字架にかけられ、自らを犠牲にされたことを憶えつつ生きましょう。真の権威の在り方について常に考え、心に留めて生きる志免教会の皆さんであることを願います。

主がうまく計らってくださった。

創世記39章1~23節 (旧68頁) マタイによる福音書28章20下節 (新60頁) 前置き 前回の創世記37章で、ヨセフは兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまいました。彼は父親のヤコブの最愛の息子でしたが、神からいただいた将来を啓示する夢を偉そうにしゃべってしまい、それによって兄たちの憎しみを買い、エジプトに売られることになったのです。人間的な視座から見れば、この物語はヨセフの悲惨な失敗の話のように見えるかもしれません。彼は兄弟たちに裏切られ、他国の奴隷となってしまったからです。しかし、神の視座から見れば、この物語は、神の御心を成し遂げるための、一つの過程にすぎません。この段階があるからこそ、ヨセフはエジプトの総理の席に近づいていくからです。つまり、「ヨセフはエジプトに売られ、彼の人生は悲惨に終わった。」ではなく、これからが「ヨセフの人生の全盛期の始まり」ということです。ですので、今日の本文の冒頭と末尾に、「主がヨセフと共におられた。」という表現が2度も出てきているのです。今日の本文は、たとえヨセフが失敗を経験していても、神はヨセフのすべてのことをうまく計らっておられるという希望のメッセージを伝えています。人間には「もう終わりだ」と感じられるかもしれませんが、神にとっては「御心を成し遂げられるための過程」に過ぎないということです。ここにキリスト者の希望があります。今日は創世記39章を通じて人間の失敗さえも主の祝福の過程として用いてくださる主なる神のお導きについて話してみたいと思います。 1。主がヨセフのすべてのことを計らってくださった。 今日の本文は、ヨセフがファラオの侍従長ポティファルに売られ、彼の召使い(奴隷)となったという話から始まります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。」(39:1)以前、神がヨセフにくださった夢によれば、彼は大勢の人の上に君臨する偉い人物になるべきでした。なのに、むしろ彼はエジプト人の奴隷となってしまったのです。彼の夢は、ただ、つまらない空夢だったでしょうか。ところで、2~3節の言葉を読むと、おかしい点が見つかります。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ(主がうまく計らわれたと同じ原文)。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(39:2-3)ヨセフはヤコブの最愛の息子に生まれ、当時の王族たちだけが着られる華麗な服を着て育ってきました。そんなヨセフがエジプトの奴隷として売られ、他人の召使いになっていたのに、聖書は彼がまるで神の祝福を受けているかのように描写しています。この世の常識から見ると、今のヨセフの状況は肯定的だとは絶対に言えないでしょう。しかし、聖書は、この世の常識とは、まったく違う観点からヨセフの状況を解釈しているのです。まるで予想していたことを平気で話しているかのようです。その中で最も理解できない表現は、神がヨセフと共におられ、彼のすべてのことを「うまく計らわれた。」ということです。「計らわれた。」という表現を英文聖書的に表現すると「繁栄させてくださった。」「成功させてくださった。」となります。つまり、ヨセフが奴隷となっていたにも関わらず、聖書はその状況さえも神の祝福として述べているということです。 ヨセフは兄弟たちに裏切られ、他国に売られ、異邦人の召使いとなっていたのに、なぜ聖書は彼の人生についてこれほど平気に、神によってうまく計らわれていると描写しているのでしょうか? 神が彼と共におられ、彼のすべてのことが成功的に導かれているという聖書の評価を、私たちはどう受け入れるべきでしょうか。アブラハムから、イサク、ヤコブ、ヨセフの人生まで、神の祝福は、人の考えとは全く違う姿で彼らに現れました。最初、神の祝福を約束されたアブラハムは、挫折を重ねた末に、100歳にもなってやっと相続人を儲け、イサクは息子たちの葛藤により、家庭の破綻を経験しなければなりませんでした。ヤコブは叔父であり、義父であるラバンの家で苦労し、故郷に帰る時も兄の仕返しを恐れなければなりませんでした。そして晩年には、愛する妻と息子まで失わなければなりませんでした。いくら考えてもアブラハム、イサク、ヤコブは人間的な観点から見れば、祝福された人だとは考えられないほど肉体的、精神的に苦難を経験しつつ生きてきました。しかし、聖書の評価はいかがでしょうか。彼らは神の祝福を受けた者として語られています。彼らには共通の事実がありました。それは神が彼らの人生の道に共におられ、彼らが成功をしようが、失敗をしようが、彼らから離れられず、いつも共におられたということです。 2。神の祝福への正しい理解。 今日の本文での「うまく事を運ぶ。」「うまく計らう。」という言葉のヘブライ語は「ツァラッハ」という表現です。「良い。平坦だ。 有益だ。繁栄する。」などの意味を持っています。ところで、旧約聖書の他の箇所では、この表現が、主の霊が「ご臨在なさる。」という風にも使われます。「主の霊があなたに激しく降り(ツァラッハ)、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」(サムエル記上10:6) ある人にとって「良い時、有益な時、繁栄する時」は主の霊が臨まれ、その人と共におられる時を意味するということでしょう。つまり、神が、ある人と一緒におられる、その瞬間が、その人の人生において真の祝福の時であるという意味でしょう。そのような観点から見ると、キリスト者の人生において、真の祝福の時は、神が一緒にいらっしゃることとも言えるでしょう。しかし、神の祝福を受けた者にも、相変わらず苦難は存在し、試練を経験しなければならない時もあります。今日の本文で、ヨセフは熱心に主人の家に仕えてきましたが、淫らな女主人の偽りによって濡れ衣を着せられ、監獄に閉じ込められてしまいました。しかし、そのような危機の中でも、神はご自分の選ばれた者ヨセフを絶対に見捨てられなかったのです。むしろ、主は監獄にいるヨセフと変わらず一緒にいてくださいました。常にご自分の民と一緒におられ「主の御旨にかなう方向に、導いていかれること」聖書はそれを祝福だと語っているのです。 今まで教師として働いてきながら、数多くの苦しむキリスト者と出会う機会がありました。彼らにはこんな疑問がありました。「なぜ、主は主を信じる自分に、こんなに苦難を与えられるのか?」事業がつぶれてしまい、一寸先も見えない人、不意の事故によってひどく怪我をしたり、家族を失った人、いくら努力しても人生がうまくいかない人。数多くの人々が「主はどこにいらっしゃるのか?」 「主はなぜ自分にこんな苦難を与えられるのか」という疑問を抱いていたのです。そして、その中には神への信仰を諦めてしまう人々もいました。しかし、その苦難の瞬間を信仰を持って最後まで乗り切った人々は、一様にこう告白しました。「当時は死にたいほど辛かったが、今になって考えてみると、その都度、神は私と一緒におられた。」神の祝福は盲目的にすべての苦難を防いでくれる盾のようなものではありません。偉い親は、無条件に子供の苦難を防ぎ、弱虫に育てる人ではありません。子供が苦難に立ち向かって進んでいけるように導き、一緒にその苦難を乗り越えていく親こそが、本当に偉い親ではないでしょうか。神もそのように無条件に苦難を防いでくださる方ではなく、乗り越えていけるよう背後におられ、諦めることなく導いてくださる方なのです。神の祝福に生きる民も苦難を経験し得ると思います。今日の本文のヨセフも確かにすべてがうまくいく状況ではありませんでした。他国に来て他人の召使となり、淫らな女主人の誘惑を断って、誤解されて監獄に閉じ込められることになってしまいました。しかし、そのような状況下でも、神は常に彼の苦難の時に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったのです。それがまさにヨセフへの神の祝福だったのです。そして、その苦難を伴う祝福の道の終わりに、ヨセフはエジプトの総理となり、その昔、神がくださった夢のように、すべての人の上に君臨し、飢饉から数多くの民族を救う真の成功を成し遂げることになったのです。 締め括り 今日の説教の主題はとても簡単です。神が一緒におられることこそが、真の祝福であるということです。もちろん、神は私たちに経済的な豊、心の安らぎ、家族の成功のような、この世が語る祝福も許してくださると信じます。人生において苦難だけを受けつつ生きることはできず、主もそれを知っておられるからです。しかし、それらだけが祝福のすべてではないでしょう。私たちは聖書が語る祝福の真の意味について常に念頭に置いて生きなければなりません。私たちにいくら辛いことがあるといっても、神が私たちと共にいらっしゃるということ、私たちのすべての人生に介入しておられるということ、それこそが真の神の祝福であることを憶えなければならないでしょう。イエス・キリストが昇天される前に私たちに聖霊を約束してくださった理由も、ペンテコステに聖霊を送ってくださった理由も、私たちがこの聖霊によって神と常に一緒にいるようにしてくださるためでした。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 新約時代を生きていく私たちに主は聖霊を通して常に一緒におられ、私たちに祝福しておられることを忘れてはなりません。神が苦難を受けるヨセフの人生に常に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったことを記憶し、現在を生きている私たちに与えられた真の祝福とは何かについて顧みる時間になることを願います。そして、私たちを見捨てられず、常に一緒にいてくださる主の豊かな恵みに感謝しつつ生きていく私たちになることを願います。

神殿について。

歴代誌下 7章1~22節 (旧679頁) マルコによる福音書 11章12~19節 (新84頁) 前置き 前回の説教で、イエスは3年間の奉仕の御業を終え、いよいよご自分の命を十字架で捧げ、罪人を赦し、救ってくださるためにエルサレムに向かっていかれました。旧約の預言のように、子ろばに乗ったメシアとしてエルサレムにお入りになったイエスは、大勢の群衆が叫んだ「ホサナ(主よ、どうか私たちを救ってください。)」、すなわち罪からご自分の民をお救いになるために十字架に進んでいかれます。これからのマルコによる福音書は、そのイエスの最後の一週間について描きます。そして今日の本文は、その初日にあった出来事の記録です。今日の本文で、私たちは何を学べるでしょうか? 一緒に探ってみましょう。 1。イエスが実のないイチジクの木を呪い、神殿から商人を追い出した理由。 今日の本文には、イエスが神殿にお入りになる前に、実のないイチジクの木を呪われ、神殿境内から商人たちを追い出される物語が登場します。なぜイエスはイチジクの木を呪い、神殿の商人たちを追い出されたのでしょうか。ドイツの医師であり、神学者であるシュヴァイツァーはイエスが差し迫った死の前で理性を失い、イチジクの木を呪ったと解釈しました。また、ある人たちはイエスが神経質な方なので、商人たちを追い出されたとも解釈しました。しかし、果たして、本当にそのためだったのでしょうか。それでは、より適切な解釈のために、まず前回の本文を読んでみましょう。「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った。」(11) エルサレムに来られたメシア・イエスは一番先に「神殿」に行かれました。そして、その境内を見て回りました。ここで「見て回る。(ペリブレポ)」という意味のギリシャ語をより詳しく意訳すると「注意深く貫いて見る。」という語でも表現することができます。イエスがエルサレムに来て当時のユダヤ教の最も重要な場所であった神殿にお入りになり、まともに機能を全うしているかどうか「注意深く貫いて見」て判断されたというわけです。旧約聖書のエゼキエル書44章は、メシアの時代の神殿と祭司がどうあるべきか、よく説明しています。「彼ら(祭司)は、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない。」(エゼキエル44:23) 神はエゼキエル書を通じて、望ましい神殿の在り方を教えてくださいます。「見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。… 主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。 … 見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。」(エゼキエル43:2-5中)エゼキエル書によると、神の栄光が神殿に到来する時、すなわちメシアが神殿に臨む時に、神殿は神の区別された祭司によって、聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教える場所にならなければならないと記録されています。しかし、メシア・イエスが神殿にお臨みになった時、神殿の祭司のうち誰も民を教えず、メシアの到来を待っていませんでした。むしろ、彼らは神殿を利用して世俗的な商売をしていたのです。そのため、神殿はまるで市場のようになっていました。マルコによる福音書は、それを「強盗の巣」と表現しています。 「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」(11:15) ところで、なぜ商人たちは、聖なる神殿の境内で両替をし、動物を売っていたのでしょうか? それを知るためには、当時の神殿の祭司たちの行動と変質した神殿の礼拝について探ってみる必要があります。 イエスの当時の神殿の祭司たちは、サドカイ派と呼ばれました。彼らはユダヤの宗教指導者であったにもかかわらず、非常に世俗的な勢力でした。また、ローマ帝国と結託し、神殿を用いて民の金を奪い取る売国奴のようなことをしていました。旧約の律法には、神に供え物を捧げる時には「傷のないものを捧げるべき」と明示されています。サドカイ派の祭司たちは、この掟を悪用し、民が連れてきた供え物の獣から、いくら小さい傷だといっても捜し出し「傷があってはならない」という名目で断り、商人たちに安値に売らせた後、自分たちが備えた「傷のない獣」を高値で買わせました。そこで、民は、損害を負いつつ、自分の「傷のある獣」を神殿と契約した商人たちに売り、新たに「傷のない獣」を買わなければなりませんでした。ところで、面白いのは、民が売った「傷のある獣」が、何日か後には「傷のない動物」となって、他の人に再び売られたということです。 また、外国に在住するユダヤ人同胞たちが神殿詣でに来た時、ローマ帝国の銀貨であるデナリオンを持ってくると、「ローマ皇帝の肖像があるから、偶像である」という名目で、ユダヤの銀貨であるシェケルに、高い手数料で両替させました。 つまり、サドカイ派の祭司たちは、神殿を私的に利用して獣と両替商売をしたわけです。イエスが神殿にお入りになる前にイチジクの木を呪い、神殿に入った後に怒って商人たちを追い出されたことは、まさにこのような宗教指導者たちの誤った行動を裁かれるという象徴的意味を含んでいました。 2。神殿の機能 神は世界を創造された方です。つまり、被造物であるこの世のすべては創り主である神の統治の下にあるということです。創造した者が造られた物の下にいることはあり得ないからです。そんなわけで、神はイザヤ書を通して次のように言われました。「天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。」(66:1)すなわち、神にとって、旧約の神殿は、絶対に必要なものではないということです。むしろ神は、この世の主の民のために神殿をくださったのです。「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(レビ記26:11-12) 被造物より大きい神が、被造物である人間たちと関係を結んでくださるために聖なる幕屋をくださり、以後、それがソロモンの時代に神殿として発展したということです。そして最も決定的な神殿の存在理由は、今日の旧約本文から見ることができます。「今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16) つまり、神殿の機能は、神が人間のためにくださった場所で、人間が神とお交わりを持つこと、すなわち祈りのためです。 なのに、イエスの時代のユダヤの宗教指導者たちは、この聖なる祈りの場である神殿で民をだまし、自分の私利私欲のために、商売をしていたわけです。そのため、イエスは神殿の商人たちを追い出し、宗教指導者である祭司たちを叱られたのです。イエス様がイチジクの木を呪われたことも、この神殿を汚した宗教指導者への呪いを象徴するものです。聖書でイチジクの木は「平和と安定」を象徴する道具としてしばしば使われます。神は宗教指導者である祭司たちを神と民を取りなす役割のために、民に平和と安定の道を示すために遣わしてくださいました。 しかし、祭司たちは民に神の御心と御言葉を正しく教えず、むしろ自分のお金儲けのために神殿を悪用していたのです。「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。」(11:12-13確かに本文の背景は春なので、イチジクの本格的な季節ではない、しかし、イチジクは春、夏、2回にわたって実を結ぶ。というのは、イエスがイチジクに近寄られた時も、イチジクは春の実を結んでいるべきだったということを意味する。)春のイチジクの木は、先に実が出てから、葉っぱが茂るようになると言われます。つまり、実はなく葉っぱだけが茂っているイチジクの木は、正常じゃなく何の役にも立たないということです。イエスの時代の宗教指導者たちの姿と似ているのです。 イエスはマルコによる福音書1章15節で以下のように宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」すでにメシアの時になりましたが、イスラエルの宗教指導者たちは、その時に葉っぱだけ茂って、実はないイチジクの木のように有名無実な存在になっていました。主イエスはイチジクの木に向けた呪いを通じて、当時の宗教指導者たちが、神に裁かれるようになることを象徴的にお示しくださったのです。「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」(18)しかし、宗教指導者たちは警告するイエスを恐れるどころか、かえって主を殺そうとするだけでした。彼らは「あのいちじくの木が根元から枯れている」(20)の御言葉のように、神に呪われ、根元から枯れたイチジクのように滅びるでしょう。主イエスは、このような堕落した宗教指導者たちと、その寿命を迎えた神殿の機能をご覧になって、ヨハネによる福音書2章でこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」主はこのような機能を失った建物としての神殿の代わりに、主ご自身が神と民を取り成してくださる真の神殿になられ、神への真の礼拝を回復させると宣言されたのです。 締め括り 今日の本文を通じて、私たちが学ぶべき教訓は何でしょうか? 聖書のあちこちに、このような表現があります。「見よ、わたしは盗人のように来る。」すなわち、イエスが突然、誰も分からない時に、再臨されるということです。その時、私たちはどんな姿であるべきでしょうか?  私たちが生きている、この世に、もはや神の神殿はありません。エルサレムの神殿は西暦70年にローマ帝国によって崩壊し、現在はイスラムの寺院があるだけです。それでは、今の時代の神殿はどこにあるのでしょうか。先ほど申し上げたように、イエスがまさに真の神殿になって神と民を取り成しておられます。だから、イエスがおられる所は、どこでも神殿になれるのです。ということは、主の体なる私たち志免教会も現代の神の神殿として機能できるということです。志免教会堂という建物が神殿であるという意味ではなく、ここに集まっているイエスの体となった志免教会員の一人一人が、まさに神の神殿であるということです。この神殿として生きていく私たちは、果たして実を結ぶイチジクのような人生を生きているのでしょうか。 葉っぱだけが茂っているイチジクのような姿ではないでしょうか。この教会にいる私たちは、主の御言葉のように、聖と俗、汚れたものと清いものとを区別する、正しい人生を追求しているのでしょうか。神殿の堕落した祭司たちや商人たちのように生きているのではないでしょうか。もし、今突然、イエスが志免教会に到来されれば、私たちは主の御前で堂々と立つことができるのでしょうか? 今日の御言葉を通じて、神の神殿である、私たち志免教会の在り方について考えてみたいと思います。その反省と悩みを主イエスは喜んで祝福してくださるからです。

≪あしあと≫

—2022年9月25日の説教の原稿はありません。- いつも志免教会の説教をお読みくださる皆さんに感謝申し上げます。 今日は、志免教会の聖書と讃美の集い(伝道礼拝)の日です。 外部の講師を招き、御言葉の説教を聞きますので、今日は説教の原稿がありません。 たいへん申し訳ございませんが、ご理解をお願いします。 代わりに短い文章を掲載いたします。 ≪あしあと≫ 作者:マーガレット・F・パワーズ ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。 一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 私は砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。 このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。 それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。 一番あなたを必要としたときに、 あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」 主はささやかれた。 「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。 あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

ユダを通じて学べる教訓。

創世記38章12-26節(旧66頁) マタイによる福音書1章1-6節(新1頁) 前置き 1.前回の説教のあらすじ 今日は、前回の創世記38章の説教で、全て話せなかったユダの物語について、考えてみたいと思います。前回の本文の内容に手短に触れてみましょう。ヤコブの息子であるユダと彼の兄弟たちは、目の敵のようだった弟ヨセフをエジプトに売り渡した後、父親にはヨセフが獣に殺されたと偽りを告げました。ヤコブはその話しを聞いて嘆き悲しみました。その後、ユダは兄弟たちと別れてカナン地域に移住し、そこで異邦人たちと付き合い、その地域の女と結婚しました。そしてユダは3人の息子を儲けました。一番目はエルでしたが、彼は神の意に反する者でした。彼はタマルという異邦の女と結婚しましたが、自分の罪のため、子供も儲けず、若死にしました。そこで、ユダはエルの子供を持たない嫁タマルに、次男のオナンの子種によって妊娠させようとしました。しかし、オナンは兄嫁に子供が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、子種を与えずにそれを地面に流しました。神はそれを悪く思われ、オナンも罰して殺されました。それを見たユダは三男のシェラが成人するまで嫁タマルを実家に戻し、待たせました。しかし、ユダは三男のシェラもエルとオナンのように殺されるのではないかと恐れ、彼が成人したにもかかわらず、タマルを呼び寄せず、放置しておきました。 なぜ、次男のオナンは兄嫁に子種を与えなければならなかったのでしょうか?オナンはなぜ、兄嫁に子種を与えないことで罰せられ、殺されたのでしょうか?私たちは前回の説教で旧約のレビラト婚について語り、それがヨベル(角笛の音)の年の精神に基づいた制度であることを学びました。ヨベルの年とは、旧約時代、神がご自分の民イスラエルにお与えになった土地を、50年ごとに元の地主に返す回復の年のことです。ヨベルの年の贖罪の日に角笛を吹くと、経済的な事情で土地を失った人、他人の奴隷となった人、他郷暮らしをする人たちが皆解放され、帰郷して自分の土地を返してもらうことができました。すべての土地の真の主人は、神おひとりですので、神がその土地を再びご自分の民にお返しになり、皆が平等に神の祝福のもとに帰ってくるという意味を持っていました。それは一度滅びた存在を立ち直らせる主の恵みを象徴しました。ユダの長男であるエルが亡くなり、ユダの次男であるオナンが兄嫁に子種を与え、兄の跡継ぎにすることは、このヨベルの年の精神に基づいたエルの家庭の回復を意味します。たとえエルが自分の罪によって罰せられ、死ななければならなかったとしても、神は弟のオナンの子種をその兄嫁に与え、息子を産ませることで、エルの家庭が再出発するように配慮してくださったのです。なのに、オナンはそのような神の御心を無視し、自分の私利私欲のために子種を与えず、流したわけです。それがオナンの罪となって、彼は殺されたのです。 2.ユダという人の本質 しかし、その父ユダもまた、ヨベルの年の精神に対する認識が薄かったようです。それゆえか彼は、三男シェラをタマルに与えませんでした。漠然と残りの独り息子だけでも生かさなければならないという極めて人間的な思いが彼を愚かにしたのです。これを通じて、私たちはあの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖であるにもかかわらず、ユダ自身は、そんなに信仰的な人物ではなかったことが分かります。結局、今日の本文では、タマルが自分の夫の跡を継ぐという一念で、義父ユダが認識していなかったことを遂行する場面を目撃することになります。「かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を刈る者のところへ上って行った。」(38:12) ユダの二人の息子が亡くなり、タマルが実家に帰ってから、かなりの年月が経ち、ユダの妻が亡くなりました。ここで「ユダが喪に服した後」という表現は、原文的に訳すると「ユダが慰められた後」という表現になりますが、ヨセフを失ったヤコブが「慰められることを拒んだ。」(37:35)と比較されます。また、タマルが「やもめの着物」(38:14)を着ていたこととも比較されます。つまり、ユダは他人の悲しみに無感覚で、自分自身だけを大事にする自己中心的な人間だったということが分かります。さて、ユダがティムナに行った理由は「羊の毛を刈る」ためでしたが、この「羊毛刈り」ということは、単に羊の毛を刈る作業という意味ではなく、当時の盛大な祭りを意味する表現です。数年の間、育てた羊の群れの毛を刈るということは、まるで穀物の収穫のような豊かさを意味したからです。そして彼は、そこで娼婦を探し求めました。おそらく、祭りで酔っ払い(何人かの学者たちの解釈)、自分の性的欲求を考えたということでしょう。妻が亡くなって間もないのに情けない人間です。 ユダは実に霊的に暗い人でした。彼は本質的に罪人だったのです。死んだ夫エルの後を継がせる計画を立てたタマルは、祭りの真っ最中のティムナの近くに行って娼婦に変装し、自分の愚かな義父ユダに接近しました。おそらく、ユダは羊毛刈り祭りで酔っ払い、欲情に燃えていたでしょう。そして自分の嫁とも気づかず、関係を結んでしまったのでしょう。私たちは聖書に登場する人々が、私たちより高い信仰のレベルと道徳性を持っていると誤解しやすいです。しかし、聖書は登場人物の愚かさと不様を加減なく見せてくれます。あの有名なダビデ王さえも、聖書は絶対に美化しません。聖書は人間の罪についてことごとく告発しているものです。ユダは嫁を娼婦(レゾーナ、語源はザナ-姦淫する。-)と勘違いしました。それはあくまでも自分の欲情を晴らすためでした。39章で弟ヨセフがポティファルの妻の誘惑から最後まで自分を守ったことと、比較される場面です。「ひもの付いた印章と杖」そして、ユダはあまりにも簡単に自分のアイデンティティを意味する物を娼婦に手渡ししました。その後、ユダは自分のものを取り返すために知人を通して、子山羊一匹を送り届けようとしました。この時もユダは自分が「神殿娼婦(ケデシャ-古代神殿で崇拝行為として売春をしていた女司祭)」と関係を結んだと知人をだましました。欲望で娼婦を買った彼が、異邦の基準として聖なる神殿娼婦に会ったと嘘をついたというわけです。 3。人の善悪とは関係ない神の計画。 また、ユダは自分も欲情に目が暗んで姦淫を犯したのに、嫁が妊娠すると、自分の罪は顧みず、是非も正さず、盲目的に嫁を焼き殺そうとしました。彼はこのように自分のことしか知らず、罪に無感覚で、無慈悲な人だったのです。ユダは神が愛された族長たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であり、また神が愛された偉大なダビデ、そして、救い主イエス・キリストの先祖であります。しかし、彼の人生の一歩一歩を見ると、あまりにも情けない人だったということが分かります。神の御心には関心もなく、神の御心に従うこともなく、子供たちは信仰とは遠く育て、他人の心や立場には興味がなく、自分の欲望に目がくらみ、自己中心的に生きる罪人の中の罪人でした。単に聖書に登場する偉大な人物の祖先だからといって、その人まで偉大な信仰者として扱えないということです。しかし、私たちはこのような愚かなユダであったにもかかわらず、彼を用いられる神の恵みを憶えなければなりません。神のご計画は人間の善と知恵、悪と愚かさと何の関わりもありません。ある人が高い道徳性と信仰を持っていても、根深い罪と不信心を持っていても、神の計画の成就には、いかなる影響も及ぼすことができないことを憶えておくべきです。神はどんなことがあっても、他の存在に左右されず、神の御心に従って、その計画を必ず成し遂げていかれる方だからです。 ユダはヨベルの年の精神への認識が薄すぎる人間でした。子供たちを立派に育てることもできませんでした。不信仰で、人間味もない人でした。それでも、神はその嫁タマルを通して、ユダがヨベルの年の精神に気づくようにしてくださり、後を継がせてくださり、(現代的な観点からしては不適切に見えるかもしれませんが、)何とかペレツという息子を産ませてくださいました。そして、そのペレツを通じて神は旧約の代表的な人物であるダビデ(旧約のメシア的な人物)と真の救い主であるキリストが生まれるようにしてくださいました。主の恵みによって罪人から正しい人が生まれるようになったということでしょう。ここに私たちの希望があります。今、私たちの信仰が立派でなくても、私たち自身が罪人として生まれたとしても、到底、自分の力では救われることが出来ない、絶望的な状況であっても、神の御心の中にいれば、私たちはキリストを通じて神の計画(救い)が成し遂げられることを見つけるでしょう。信仰者にとって最も大事なことは「自分が立派な人であり、自分が何かを成し遂げる。」ではありません。「自分が信じる主なる神が偉大な方であり、その方が自分のことを導いてくださる。」が大事なのです。これがまさにキリスト教が語る「信仰」なのです。神は罪人のユダが自分の過ちについて悟るように導いてくださいました。ユダは立派な信仰者ではありませんでしたが、神はどうにか彼を見捨てることなく、変えていかれたのです。それを通じて、最終的にユダは自分の過ちを認め、後には父親ヤコブに盛大な祝福を受け、キリストの先祖となる信仰の人物に変わっていくのです。 締め括り ユダは、実にどうしようもない罪人でした。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫だったにもかかわらず、彼の人生は全く信仰者の姿ではありませんでした。しかし、神は最後まで彼を見捨てられず、少しずつ変えていかれました。もちろん彼の2人の息子は死んでしまいましたが、タマルを通じて、また新しい息子2人を与え、そのうち1人をメシアの系図に乗せてくださいました。神は罪を憎まれる方ですが、罪人まで憎まれる方ではありません。罪人を新たにされ、正しい人に生まれ変わらせることを望んでおられる方です。人にはできないが、神にはお出来になるので、神はユダのような罪人も少しずつ変えていかれるのです。ユダの罪から私たちの姿を見出します。しかし、神は私たちに罪があるにも関わらず、必ずユダのように私たちを見捨てられず、主イエスの贖いによって救ってくださる方でしょう。私たちもまた、そのように罪人をあきらめない神の御恵に留まっていることを憶えつつ生きるべきでしょう。ユダの物語に鑑み、私たち自身を顧みることを願います。主の豊かな恵みを祈ります。

子ろばに乗ってこられる方。

ゼカリヤ書9章9節(旧1489頁) マルコによる福音書11章1-11節(新83頁) 前置き 今日のマルコによる福音書の本文には、いよいよエルサレムに、お入りになるイエスの物語が描かれます。イエス•キリストはこの世のすべての罪を背負い、自らを十字架のいけにえとして捧げ、罪人を救われる、神によって遣わされた唯一のメシアです。旧約の律法には人が神の御前で、自分の罪を償うために傷のない獣のいけにえを捧げなければならないという規定がありますが、その旧約のいけにえは一度で終わらず毎年行わなければならない不完全なものでした。獣の血では人の罪を完全に償うことができないからです。しかし、神がお遣わしくださった唯一のメシアであるイエスは、完全な神であり、完全な人であるゆえに、罪のないご自分の肉体を十字架で捧げることにより、罪人の救いをたった一度で完成する完全ないけにえになられました。イエスがエルサレムに向かわれる理由は、まさにその完全な救いのためにご自分の肉体を生贄になさるためでした。これまでイエスは病んでいる者、悪霊に取り付かれた者、貧しい者たちの世話をしてくださり、弟子たちに福音の秘密を教えてくださいました。しかし、もはや主は癒され、宣教され、教えられる御業に終止符を打ち、これからは自ら罪人のための身代金になられるために、犠牲と贖罪の十字架の道に進まれるのです。今日の本文からは、十字架に向かって進まれる、主イエスの最後の一週間の物語が描かれます。 1.子ろばに乗ってこられた方。 「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」(1-2)弟子たちと一緒にエルサレムの近所に来られた主は、すぐエルサレムにお入りにならず、その前にエルサレムの東側、オリーブ山のふもとのベタニアという小さな村に行かれました。そして、主はそこから子ろばを連れてきなさいと、向こうのベトファゲに二人の弟子を送られました。その後、主はオリーブ山の道を通ってエルサレムの方へお向かいになりました。オリーブ山はエルサレム神殿が見下ろせる低い丘ですが、神殿の入口が見える場所です。主がエルサレムの東側にあるベトファゲとベタニア、オリーブ山を通ってエルサレムに行かれた理由は、おそらく「メシアは東から臨まれる」という当時のユダヤ人の信仰と関わりがあると思います。「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」(エゼキエル43:4)そして実際に、東側のオリーブ山からエルサレムに目を向けると神殿の東側(神殿の入口)が丸見えなので、メシアの到来を意味するのかもしれません。ところで、ここで少しおかしいことがありますが。なぜ、主イエスは立派な白馬(馬は帝王の出現を意味)に乗ってこられず、みすぼらしい子ろばに乗ってエルサレムに来られたのでしょうか? 「見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、誠実および真実と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」(黙示録19:1)黙示録を見ても、再臨のキリストが悪をお裁きになる時に、白い馬に乗っていらっしゃると書いてありますが、今日の本文のキリストはあまりにもみすぼらしい姿の子ろばに乗っておられました。何か間違ったのではないでしょうか。しかし、次の箇所を読むと考えが変わるかもしれません。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9) 今日の旧約本文であるゼカリヤ書は、メシアの出現について、このように話しているからです。旧約では、メシアの出現について2つの姿を描写しています。一つは、先日、説教で取り上げられたダニエル書の「天の雲に乗った姿」です。「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進んだ。」(ダニエル7:13) そして残りの一つは、今日のゼカリヤ書のように「子ろばに乗った姿」です。ゼカリヤ書はメシアは謙遜な方なので、雌ろばの子に乗ってくると表現しています。実際にイエスは自らを低くされ、罪人の贖いのために代わりに死んでくださる謙遜の王です。しかし、私たちはここで「子ろば」に目を奪われてはいけません。「まだだれも乗ったことのない」という表現に目を注ぐ必要があります。 主イエスが子ろばに乗られた理由は、旧約の預言の成就という意味でしょう。ところで「まだだれも乗ったことのない」という言葉は、イエスの本質につい教えてくれるヒントなのです。ミシュナーサンヘドリンというユダヤ人のタルムードには「王が乗る獣には誰も乗ってはならない。」という解説があると言われます。つまり、イエスは単純に子ろばというみすぼらしい獣に乗られたのではなく、誰も乗ったことのない預言に登場する特別な獣に乗られたということです。誰も乗ったことのない子ろばという表現がイエス•キリストのメシアとして、また王としてのアイデンティティを表しているわけです。また、普通の人々はエルサレムに入る時に獣から降りて歩いて入ったと言われますが、イエスが獣に乗ったまま、入城されたということ自体が特別な意味を持っているのです。そして、子ろばに大人のイエスが乗ったということで動物虐待と誤解する人もいますが、これは私たちが考える幼いろばではなく、元気な若いろばの意味として解釈できるということを見逃してはならないでしょう。現代を生きている私たちの目には、子ろばに乗られたイエスが滑稽に見えたり、不自然に感じられたり、するかもしれません。しかし、イエス当時のユダヤ人にとって、子ろばに乗ってエルサレムにお入りになったイエスのイメージは、旧約の預言に登場した真のメシアと重なって見えたということを理解したうえで、今日の本文を読む必要があります。 2.ホサナ:主よ、どうか私たちを救ってください。 イエスが、エルサレムに入ろうとされた時、多くの人々は子ろばに乗って来られた、このイエスというラビを見て、旧約の預言を思い起こしたでしょう。それで、人々はついにローマ帝国の圧制から自民族を救い上げる指導者が臨んだと考えたのでしょう。人々はイエスという若いラビがいきなり登場し、病人を癒し、悪霊を追い出し、多くの人々に食べものを与え、今までなかった権威ある講説をするといううわさを聞いてきました。そういうわけで、もしかしたら、この人こそがイスラエルを救い出すメシアであるかもしれないと思ったわけでしょう。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(8-10) 今日の本文にはホサナという表現が出てきていますが、これは「主よ、どうか私たちを救ってください。」という意味のヘブライ語です。「どうか主よ、わたしたちに救いを。」(詩篇118:25) そして、その出所は詩篇118編です。ところで、ホサナの実際の発音は「ホシュアナ」です。「ホシュア」は救いを意味する「ヤシャ」という表現が文法的に変形したもので、「ナ」という表現は「どうか、ぜひ」などを意味します。この「ヤシャ」から旧約の「ヨシュア」新約の「イエス」という名前が派生しました。 さて、人々はどういう思いをもって、イエスに「ホサナ」と叫びながら喜んだのでしょうか? 彼らはイエスがこの世のすべての存在を惨めにする罪の問題を解決するために来られた霊的なメシアであるということを分かっていたでしょうか。実に残念なことは、主の弟子たちも、群衆もイエスをただ政治、軍事的なメシアとして理解していたということです。彼らが考えてきた救いは、ただ自分の国と民族が、ローマ帝国から解放され、自分たちの思い通りに生きることでした。神は創世記のアダムの堕落以来、この世を汚し乱す罪の問題を解決するために休まず働いてこられました。神は贖いの御業を成し遂げられるために、イスラエルという主の民を打ち立てられ、祭司の国にしてくださいました。イスラエルの使命は神の救いを、全世界に表す神の国になることでした。そのため、主は巨大な国々からイスラエルを守り、保たせてくださったのです。しかし、イスラエルは自分の使命を忘れ、世俗的な道を進み、数多くの罪を犯しました。そこで、神はイスラエルを滅ぼされ、帝国の植民地にされたのです。なぜ、神はご自分の民さえも滅ぼされるのでしょうか。神は巨視的にこの世をご覧になる方です。一国の興亡盛衰ももちろんつかさどる方ですが、それより、もっと大きな問題、すなわちこの世の全てを苦しめる罪の問題を解決するために、より広く世を見ておられる方なのです。神にとって最も重要なのはイスラエルという一国の復興ではなく、人類を罪から救われることでした。 しかし、当時のイスラエルの人々は、そうではありませんでした。彼らはあまりにも微視的な観点からメシアを理解しました。自分の祖国を解放する政治的な人、自分たちの欲求を聞いてくれる世俗的な指導者だけを求めていたのです。イスラエルの群衆は子ろばに乗っておられるイエスを眺めながら、どのような意味の「ホサナ」を叫んだのでしょうか。彼らは罪の問題を解決しようとされた神の巨視的な観点とは全く関係のない、自己欲望の解決というあまりにも微視的な観点からイエスを理解しようとしたのです。これは私たちの信仰とも関係があります。 私たちは毎週教会に出席し「ホサナ」を唱えます。もちろんホサナという表現は直接言いませんが、私たちの礼拝、讃美、教会生活が結局は「主よ、どうか私を救ってください」という無言のホサナではないでしょうか。ところで私たちは自分の罪を贖われるイエスへの愛と感謝としてホサナを呼んでいるのか、それとも自分の有益と必要だけのためにホサナを呼んでいるのかを、はっきり確かめなければなりません。ひょっとしたらイエスの贖いと救いの御業は、当時のイスラエル人においては、別に必要ないものだったかもしれません。 なぜなら、彼らが望んだ救いは罪の問題を解決する根本的な救いではなく、直ちに自分の願いが叶うという世俗的な救いだったからです。そして、彼らは自分の世俗的な欲望を聞き入れてくださらなかったイエスを自分たちの手によって十字架につけてしまいました。私たちはどのような意味としてホサナを呼んでいるのでしょうか? どんな心で信仰生活を続けているのでしょうか。 締め括り 今日はイエスが子ろばに乗って来られた出来事の意味について、そしてホサナの意味と理解し方について分かち合いました。昔、ユダヤ人のあるラビがこのような話をしたと言われます。「神の民がまともに備えていれば、メシアは天の雲に乗ってこられるだろう、しかし、神の民がまともに備えていなければ、メシアは子ろばに乗ってこられるだろう。」もちろん、これは一介のユダヤ教のラビの解釈ですので、キリスト者はこの言葉を真摯に受け入れる必要はないでしょう。しかし、私たちは彼の言葉を通じて、私たちがキリスト者として、どのような心構えで生きているのか、振り返ることはできると思います。主への純粋な信仰によってホサナを唱えているのか、自分の必要と欲望によってメシアを利用するために、ホサナを唱えているのか、私たちは常に私たちの信仰の純粋性について疑い、点検しつつ生きるべきです。これからマルコによる福音書で現れるキリストの十字架の道を通じて、より一層私たちの現在の信仰を顧み、主に正しく聞き従うために力を尽くす私たちになることを願います。今週も主の豊かな恵みにあって平安に過ごされますよう祈ります。

わたしよりも彼女の方が正しい

創世記38章1-11節(旧66頁) マタイによる福音書1章3-6節(新1頁) 前置き 前回の創世記の説教では兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまうヨセフについて話しました。ヨセフは夢を見る人でした。神はヨセフに夢を通して、将来のことを教えてくださったのです。ヨセフの時代には、新旧約聖書が完成していなかったため、神は夢を通して主の御言葉を啓示してくださいました。しかし、ヨセフは、その夢を自分のことを誇るために誤って使いました。父も、兄弟たちも、自分にひれ伏すようになるだろうと偉そうにしゃべり続けたのです。主の御言葉を託された者は、謙遜であるべきだったのに、ヨセフはそうではなかったのです。その結果、ヨセフは兄たちに憎まれ、奴隷として売られることになってしまいました。しかし、神はそのようなヤコブ家の悲劇さえも主の道具として用いられ、ご自分の計画を成し遂げられる方です。主の民と呼ばれるキリスト者にも困難と苦難は起こり得ます。しかし、神は民の困難と苦難さえも主の道具として用いられ、最後には喜びに変えてくださる方です。主はヨセフに困難と苦難を許されましたが、それによって、ヨセフはエジプトの総理になり、結局は自分の家族と隣の数多くの他民族とを救うことになりました。いかなる困難と苦難さえも、喜びに変えることがお出来になる神に私たちの希望を置き、信仰によって生きることを望みます。主への信仰と希望は決して私たちを裏切らないからです。 1.なぜ、ユダなのか? 今日の本文は、ヨセフではなくヤコブの四男であるユダに目を移しています。実際、38章でユダの物語が出てこなくても創世記の全体的な内容には何の差支えもないのに、なぜ聖書は、あえてユダを登場させるのでしょうか?その理由は、神がヨセフだけでなく、ユダというまた別の男にも深い関心を持っておられるからです。実際に神はユダという罪深い人を通じて、また別の救いの歴史を造っていかれます。彼の子孫から新旧約を代表する人物が生まれるからです。メシアを象徴する、旧約の代表的な人物であるダビデ王、そして、真のメシアである新約の主イエス•キリストが、まさに彼の子孫です。しかし、ユダという人そのものは、最初から神に認められた人ではありませんでした。彼は兄弟たちを煽り立てて、銀二十枚で弟ヨセフをエジプトに売ってしまい、父親には弟ヨセフが死んだと、偽りを告げた不義の人間でした。今日の本文でも、彼は決して正しい姿を見せません。ユダの本質は罪人でした。しかし、それでも、彼は44章で末弟のベニヤミンと父親ヤコブのために、代わりに自分の命をかけ、49章では父親ヤコブの心からの祝福を受けるようになります。彼は罪人でしたが、聖書は彼を正しい人と認めているのです。旧約学者たちによると、罪に満ちていた彼が正しい人に変わる決定的なきっかけが、今日の本文にあるかもしれないと言われます。罪深い人だった彼はどのようにして変わるようになったのでしょうか。 2. レビラト婚 (レビラトは夫の兄弟を意味するラテン語) 今日の本文によると、ユダはヨセフをエジプトに売った出来事以後、自分の住いをアドラム地域に移したそうです。ユダは父の家を離れてカナン人の地域に移ったのです。そして、そこでシュアという人の娘と結婚しました。つまり、ユダは異邦人と付き合い、異邦人の娘と結婚したということです。それは、主が禁じられたことでした。聖書にはシュアの娘と「結婚」したと記されていますが、その表現には性的欲望によって彼女をめとったという否定的なニュアンスが含まれています。ユダの子孫の中には、偉大な人物が数多くいましたが、ユダ本人は信仰の人物であるとは言えなかったのです。以後、ユダはシュアの娘を通して、エル、オナン、シェラという3人の息子をもうけ、長男エルが成年になった時、タマルという異邦人の女と結婚させました。しかし、エルは主の御前に正しくない人生を送ったからか、主に殺されました。残念なことにタマルは子供なしで寡婦になってしまいました。そこで、ユダは次男のオナンが兄嫁に対して義務を果たすようにしました。ここで義務を果たすということは、子供なしに兄が死んだので、その兄に代わって兄嫁に子種を与えるという意味でした。しかし、オナンは兄嫁に子供ができれば、自分の財産が減るだろうと懸念し、子種を地面に流しました。すると、主はオナンも悪く思われ、彼をも殺されました。一体、オナンの罪は何だったのでしょうか。 古代の聖書の世界にはレビラト婚という仕来りがあったと言われます。「兄が死ぬと兄嫁に兄の財産が受け次がれ、そのまま兄嫁が他の血族の人と再婚すると、血族の財産が外に流出する可能性があるため、それを防ぐために作られた制度」だったのです。しかし、それは極めて世俗的な解釈であるので、私たちはレビ記25章を通じて、聖書においてのレビラト婚の意味について探ってみる必要があります。旧約にはヨベルの年(ヨベルは角笛の音を意味)という概念があります。 「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」(レビ記25:10) ヨベルの年とは、神がご自分の民イスラエルに与えられたすべての土地を、50年ごとに元の所有者に返す回復の年でした。ヨベルの年の第七の月の十日の贖罪日に、角笛を鳴り響かせれば、経済的な困窮で土地を奪われた人、他人の奴隷となった人、故郷から遠く離れた人たちが、皆解放され、故郷に帰り、自分の土地を返してもらえる恵みの年だったのです。すべての土地の真の主は神おひとりであり、神がその土地を再びご自分の民に返され、皆が平等に神の祝福の下にいるようにしてくださるという意味の日だったのです。それは、一度滅びたような存在を、再び助け起こしてくださる主の恵みでした。 主が、現代人には多少変に感じられがちな、このレビラト婚をお許しになったことには、あのヨベルの年の精神と深い関わりがあります。たとえ、ユダの長男エルが自分の罪によって神に罰せられ、子供なしに死んだとしても、レビラト婚によって彼の子と認められた者が生まれれば、ヨベルの年の精神に基づき、彼の財産を引き継ぎ、エルの罪とは関係なく、再びエルの家を立てることが出来るという意味なのです。つまり、次男のオナンが兄嫁のタマルと関係を結ぶのは、このようなヨベルの年の精神を果たす大事な義務でした。 しかし、オナンは兄の相続人が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、ヨベルの年の精神を無視して自分の子種を与えませんでした。それが主の御前に大きな罪になってしまったということです。オナンの死はヨベルの年の精神を無視した結果なのです。この世のすべてのものは神の所有です。そして、すべてのものの主である神は、それぞれの人と民族と国に土地の境を与えてくださいました。そして神はすべての人が神のご支配のもとで、公平で幸せに生きることを望んでおられます。しかし、この世の現実はそうではありません。誰かは他者より、強く豊かになることを望んで、弱い者を踏みにじって苦しめ、奪い取ります。そのような精神から戦争と帝国が生まれるのです。オナンの思いはそのような世の現実に似ていたのです。オナンは兄の分を欲しました。彼の思いは神のヨベルの年の精神に対立しました。それが彼の死んだ理由でした。 3.タマルの努力が持つ意味。 「ユダは嫁のタマルに言った。『わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。』それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。」(38:11) ユダには3人の息子がいましたが、一番目のエルも、二番目のオナンも、自分の罪によって神に殺されました。もうユダは末っ子のシェラを通して嫁のタマルに子種を与えなければなりませんでした。それがヨベルの年の精神に合致する対応でした。しかし、ユダはタマルを実家に帰らせ、末っ子シェラが成人するのを待たせるだけでした。ユダはシェラが成人になったにもかかわらず、タマルを呼びませんでした。実はユダはタマルに末っ子を与えるつもりではなかったからです。彼も死ぬかと恐れたからでしょう。考えてみれば、エルとオナンの死は、彼らだけの間違いによることではなかったかもしれません。父のユダが信仰者としての真実な人生を生きることが出来なかったから、彼らも父の姿を踏襲したのではないでしょうか。普段、ユダが主の御言葉を軽んじてきたので、彼らも主の御前で悪い姿を見せてきたのではないでしょうか。もし、ユダにヨベルの年の精神を重んじる心があったら、彼は末っ子シェラが成人するやいなやタマルを呼んでシェラの子種を与えるようにしたでしょう。しかし、ユダは、末っ子の命も奪われるかと恐れるだけでした。末っ子が死ぬかもしれないという不信心が、主のヨベルの精神を大切にする心よりも強かったのです。 今日の一度の説教で、ユダとタマルの物語を済ませようとしましたが、時間の関係で無理だと思います。ですので、次の創世記の説教で、ユダとタマルの物語をもう一度取り上げたいと思います。あらかじめお話しますと、タマルはユダを騙して直接ユダの子種をもらい双子の息子を身ごもることになります。ユダは彼女が不浄を犯したと判断し、彼女を殺そうとします。しかし、タマルはユダの保証の品を見せ、身ごもった子供たちがユダの子であることを証明します。彼女はしつこくエルの相続人を得るために努力しました。そして、それは人間の目には不適切なことに見えるかもしれませんが、神の御目には、ヨベルの年の精神を成し遂げるための彼女の努力と見られました。なぜなら、ユダとタマルの間で生まれたペレツが、あの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖になるからです。現代人の目には望ましくないと思われることでしたが、少なくとも創世記が記録された古代にはタマルの努力は、非常に崇高なことでした。タマルが意図したかどうかは分かりませんが、少なくとも聖書では、人間の考えを越えて神の御心を成し遂げるために努力する姿として描かれているからです。もちろん神はユダとタマルのような不適切な関係を擁護する方ではありません。現代を生きる私たちは絶対にそうしてはいけません。しかし、神の救いの歴史という観点から見ると、タマルの努力がなかったら、ダビデ王もキリストも生まれなかったかもしれません。そのため、結論的にタマルの行為は神の御心に合致すると評価されるのです。 締め括り ヨベルの年の精神は、私たちの信仰において、大事な意味を持ちます。滅びるべき人を、赦して再び活かされる、主の御心が含まれているからです。イエス•キリストが罪人を赦し、生まれ変わらせてくださることも、ヨベルの年の精神と相通じます。タマルは現代の道徳観念から見ると不適切な行為の人かもしれません。しかし、何があっても死んだ夫の家を継がせるという彼女の努力は、ヨベルの年の精神と合致し、イエス•キリストの系図を守る手段となりました。そのため、彼女はイエス•キリストの系図に名を載せる偉大な異邦の女性になったのです。「ユダはタマルによってペレツとゼラを(もうけた)」(マタイ1:3) ユダがタマルが自分より正しいと言った理由は、彼女の行為がユダの行為より神の御心に合うことだったからです。ユダは残りの末っ子を死なせたくないという考えで神の御心に従いませんでしたが、タマルは死んだ夫の家を継がせるために、自分の命をかけてまで子供を持とうとしました。そして、タマルの行為の結果は、ヨベルの年の精神に合致する正しい行為となったのです。そして、ユダはそのような嫁の努力を通じて、自分の過ちを反省し、正しい生き方について自覚するようになったのではないでしょうか。今日の本文を通じて聖書が語るヨベルの年の精神について考えてほしいです。そして、そのようなヨベルの年の精神を成就されたキリストの救いと愛を覚えたいと思います。

目が見えるようになりたいのです。

列王記上19章11-13節(旧566頁) マルコによる福音書10章46-52節(新83頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教では、聖書が語る「栄光」について話しました。「栄光」は非常に抽象的な表現ですので、定型表現として定義づけしにくい概念です。しかし、新旧約聖書に記された原文から、私たちは栄光が持つイメージについて、ある程度知ることができました。「ある存在が自分らしくあること」「ある存在について正しく知り、正しく言い表すこと」が栄光のイメージであると話しました。「強くて、輝いていて、栄えた何か」が栄光ではなく「神が神らしくいらっしゃること」が神の栄光であり「神を正しく知り、正しく告白すること」が信者の栄光であると言いました。そういう意味で、主イエスの救いと聖霊の導きを通じて、主のことを正しく知り、正しく告白するようになったことは、主を信じる私たちにとって、掛け替えのない栄光だと言いました。前回の説教で学んだ栄光の意味について、もう一度思い出してください。さて、今日の本文もある意味で、主の栄光に関わる話になると思います。 1.盲人バルティマイと出会われたイエス。 今日の本文は、エリコの町で主イエスと盲人「バルティマイ」の出会いから始まります。「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」(10:46-47) バルティマイは、ただの個人の名前というより「息子」を意味するアラム語「バル」にギリシャ語「ティマイオス」という人名がくっついた合成語です。つまり「ティマイオスの子」を意味します。それでは、ティマイオスはどういう意味でしょうか? 新約のギリシャ語で「ティマイオス」は「尊敬する」という意味の単語ですが、子を意味する「バル」がギリシャ語ではなくアラム語であるだけに、ギリシャ語の「ティマイオス」も実はギリシャ語ではなく、アラム語の当て字である可能性が非常に高いです。そこで、いくつかの解説書を引いてみると、この「ティマイオス」が、アラム語の「タメ—」に由来したことが分かりました。その意味は 「不浄である、汚い」などでした。これにより、バルティマイは「汚れた者、罪人」のイメージを持つ存在であることが推測できました。つまり、バルティマイは自らでは到底、自分自身を救うことができない「罪人」を象徴する存在であり、そのような罪人は、比喩的に盲人のような存在であるということです。ところで、主イエスは、この「汚れた者、罪人」を象徴する盲人バルティマイの目が見えるように癒してくださったわけです。 今日のイエスと盲人の出来事を見ながら、前にもあった盲人の物語が思い起されました。「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」(8:22) 8章にもイエスが盲人を癒された物語があるからです。ところで、なぜ、同様な物語が再び出てくるのでしょうか? 同様な話しを二度するのは、紙面の無駄づかいではないでしょうか? しかし、今日の盲人の物語は、必然的な話しです。その理由は、8章の盲人の物語と今日の盲人の物語がつながっているからです。けっこう時間差のある物語なのに、いったいどういう意味でしょうか。実は8章22節から、10章52節までは、一つの長いエピソードなのです。そして、その2つの物語は、道(ギリシャ語ホドス)という表現によって繋がっています。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中(ホドス)、弟子たちに、人々は、わたしのことを何者だと言っているかと言われた。」(8:27)「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、途中(ホドス)で何を議論していたのかとお尋ねになった。」(9:33)「イエスが旅(ホドス)に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10:17)「一行がエルサレムへ上って行く途中(ホドス)、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32) 「バルティマイという盲人が道端(ホドス)に座って物乞いをしていた。」(10:46) つまり、二つの盲人の物語の間には、このようにホドス(道)という言葉が架け橋のように何度も登場しています。 2。道の上のイエスと弟子たち なぜ、道(ホドス)という表現が、繰り返し登場しているのでしょうか? 道はどこかに至るために存在するものです。そして主はその道に沿ってどこかに進んでおられます。前回の説教で、私たちはイエス•キリストの栄光について学びました。「救い主として来られたイエス•キリストが救い主らしくいらっしゃること」が主イエスの栄光であると話しました。その言葉の意味は「滅ぼされるべき罪人の贖いのために十字架で死に、復活して御救いを成し遂げること」が、すなわち救い主イエスの救い主らしい状態であり、イエスの栄光であるということです。主イエスはそのご自分の栄光のために十字架に向かう道を進んでいかれるのです。主は御父がご自分に与えられた罪人の贖いのための死と復活という、栄光の杯をお受けになるために道を進んでいかれます。そういうわけで、主は8章、9章、10章で3度もご自分の苦難と死と復活に言及されたのです。主イエスの道は罪を贖うための死の道であり、真の命のため復活の道であり、その目的地は苦難の十字架なのでした。そして、その十字架での死と復活が成就する時、主イエスは、御父から真の栄光をお受けになるのです。ところで、その道の上に弟子たちもいました。しかし、弟子たちは、その道が持つ真の意味が分かりませんでした。彼らは世俗的な思いで、メシアの権力と輝かしい栄光だけを望んでいたのです。彼らはイエスと同じ路上にいたにもかかわらず、主の御心がまったく分からない状態でした。 今日の本文で盲人バルティマイは、実は主人公ではないかもしれません。もしかしたら、癒しが必要な真の盲人は弟子たちだったのかもしれません。8章の盲人と10章のバルティマイという、目が見えない二人の物語を通じて、マルコによる福音書は、私たちに「目が見えない」ということの本当の意味について、何か特別なメッセージを投げているのかもしれません。そのメッセージとは、主と一緒に主の道の上にいるにもかかわらず、主の存在理由を見ることができず、気が付くことも出来ない、この情けない弟子たちこそが本当の盲人であると暴いているのではないでしょうか。 8、9、10章で主と一緒に路上にいた弟子たちは、どんな姿だったでしょうか。主は3度もご自分の苦難、死、復活について言われましたが、その度に弟子たちの反応は、恐れ、否定するだけでした。主が山の上で輝かしく変容された時、一緒に山に登った3人の弟子たちは、それを主の栄光と勘違いして、そこに安住しようとしました。主が山の下にお降りになった時、残りの弟子たちは、汚れた霊を追い出すことが出来ず、律法学者たちと論争する無力な姿を見せるだけでした。イエスの道を歩きながらも、権力に目がくらんで互いに争いました。イエスに会うために子供を連れてきた人たちを叱りました。ヤコブとヨハネは、主の栄光まで欲したのです。主イエスに最も身近な弟子たちが、主を一番理解していない状態だったのです。 3.目が見えるようになるということ。 恐ろしいことは、これがイエスの弟子だけに限った問題ではないということです。今日のこの物語は、講壇で説教する私自身をはじめ、この説教を聞いておられる、すべての方々にも適用される事柄です。私たちは果たして目が見える状態だと自負できますか? 私たちは本当に主の道の上で、主イエスに正しく従っているのでしょうか。習慣的に説教し、習慣的に説教を聞き、習慣的に祈り、習慣的に礼拝に出席しているのではないでしょうか? 私たちの信仰は、主の御心に適ったものなのでしょうか、それとも、私たち自身の欲望のための信仰なのでしょうか。常に自分自身のことを振り返るべきだと思います。そうでなければ、私たちは自分も気づかないうちに、8,9,10章の弟子たちのように目を開けてはいるけど、目が見えない盲人のような存在になってしまうかもしれません。「バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」(10:46-47) しかし、私たちに希望はあります。主イエスが私たちの目が見えるように導いてくださるからです。今日、バルティマイの目が見えるようになったのは、主イエスのことを正しく知り、正しく告白した、彼の信仰に基づきます。主イエスが誰なのか、正しく知り、正しく告白したバルティマイは、その信仰によって癒されました。私たちに主イエスによる正しい信仰さえあれば、私たちも主によってバルティマイのように目が見えるように癒されるということです。 「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」(10:48) 他の人たちが何と言おうとも、彼は意に介さなかったのです。彼はイエスが誰なのか正しく知り、ひたすら告白しました。「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:51-52) 主は、ご自身へのバルティマイの告白を彼の信仰と認めてくださいました。 そして彼はその信仰を認めてくださったイエスによって目が見えるようになりました。罪人たちはバルティマイの名前のように、罪によって汚され、どうしても自らを清められない惨めな存在です。 しかし、主イエスへの正しい信仰は、罪人を赦してくださり、目が見えるように癒してくださる主イエスへと導いてくれます。そして主イエスはその信仰をご覧になって、罪人を救ってくださいます。弟子たちのように、自分の欲望のために信仰を利用しないようにしましょう。バルティマイのように惨めな状況にあっても、主への信仰と希望とで生きられるように祈りましょう。主イエスの御心に適う信仰者になることを追い求めていきましょう。真の信仰によってこそ、私たちの目は見えるようになるからです。 締め括り 説教を書きながら、ふと、今日の旧約本文が思い起こされました。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12) 旧約の預言者エリヤは、アハブとイゼベルという悪い指導者たちに脅かされ、神の山に身を避けました。主はいつも彼と一緒におられましたが、信仰が弱くなったエリヤが恐怖に陥ったからです。神は、彼を呼ばれ、激しい風と地震と火を見せてくださいました。主の権能でした。しかし、主はそこにおられませんでした。むしろ主はささやく声、つまり御言葉を通して彼と共におられました。目に見える現象だけを追求するのは霊的な盲人のような姿です。主の栄光は目に見えるものではありません。主を真の主として仕え、主を正しく知り、告白し、信じること、それらに真の栄光があり、主は私たちを霊的な盲人の姿から救ってくださるのです。目が見えるということはどういう意味でしょうか。その質問を持って過ごす一週間になることを願います。

エジプトに売られたヨセフ

創世記37章12-36節(旧64頁) ヨハネの手紙第一4章9節(新445頁) 前置き 前回の創世記の説教の主なテーマは、ヨセフの夢でした。旧約時代、また新約聖書が整う前の時代には、神が夢を通じて啓示を与えられる場合が多々ありました。つまり、神は主の計画の一部をヨセフの夢を通して示してくださったのです。しかし、まだ物心がついていなかったヨセフは、神がくださった啓示の夢を、自分勝手に解釈し、好きなように家族にしゃべってしまいました。これによってヨセフの兄たちはヨセフを、さらに憎むようになり、神がくださった啓示の夢も、ただ嘲弄の種になるだけでした。しかし、神がくださった夢の通り、ヨセフは将来、大きな国エジプトの総理になる人でした。主はヨセフをエジプトの総理に出世させ、ヤコブの家族はもとより、当時の周辺地域の人々を飢饉から救われる計画だったのです。そのように重要な神の啓示の夢だったのに、まだ分別のない愚かなヨセフは、その夢を通して家族を傷つけるだけだったのです。御言葉を託された者は、謙遜であるべきです。神の御言葉は、私たち一人だけのためのものではありません。私たちに託された御言葉は、私たちを通じて、周りの人々にまで伝わるのです。いくら大切な主の御言葉と言っても、憎らしい人が語る御言葉は耳に入りません。したがって、神の御言葉そのものであるキリストの体なる、私たち教会員は、神の御言葉のためにも謙遜に生きるべきです。そのために常に自らをわきまえて生きるべきです。 1.差別がもたらした破綻 今日は父ヤコブの愛のもとで、何不自由なく生きてきたヨセフが、兄たちによってエジプトに売られてしまう物語について話してみたいと思います。ヨセフは、ヤコブの最愛の妻であるラケルが、長年、神に求め続けてもうけた息子です。しかし、残念なことにもラケルは長生きできず、35章で、ヤコブの末っ子であるベニヤミンの出産中に、世を去ることになりました。そういうわけで、ヤコブはラケルの長男ヨセフを他の息子たちより、格別に愛したでしょう。「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。」(37:3) この前回の本文では、ヨセフの晴れ着について記されていますが、これは原文的に色とりどりの糸で織った裾の長い服とも解釈できます。実は今のような産業化時代には、色とりどりの服が特別ではないかもしれませんが、ヤコブがいた古代には、王族や貴族でないと着られない高価で貴重なものでした。色とりどりの晴れ着を作るためには、さまざまな色の染料が必要でしたが、赤い染料にはザクロが、青い染料には海の貝類が、黄色い染料にはサフランのような天然材料が必要でした。ヤコブはヨセフをあまりにも愛したあげく、当時の偉い人たちが着る裾の長い晴れ着をヨセフのために作ったというわけでした。しかし、その愛がむしろヨセフには毒となりました。「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(37:4) ことわざの中に「可愛い子には旅をさせよ」という言葉がありますが、今日のヤコブとヨセフには、このことわざが必要ではなかったでしょうか。もし、ヤコブがヨセフを特別扱いしなかったら、兄たちを差別しなかったら、このような悲劇はなかったでしょう。私には変わってはならないと思っている牧会哲学があります。それは教会員一人一人を差別しないことです。ただし、各々の状況に合わせて関心の強弱はあるかもしれません。しかし全体的に同じように愛し、同じように関心を持とうとしています。なぜなら、差別から共同体の分裂が起こり、互いに憎しみあうようになるからです。私たちの主イエスは世のすべての人々を公平に愛される方です。誰でも主の御前に出て、自分の罪を悔い改め、主に立ち返るなら、公平に受け入れてくださり、喜んでくださるのです。金持ちだから大喜びし、貧乏人だから適当に喜ぶというわけではありません。主のご招待は常に開かれていますが、それを受け入れるか否かに従って、主の扱いが異なるように感じられるだけです。むしろ主は主を受け入れた信者たちに、主を信じない者たちより、激しい苦難をお許しになる時もあります。キリスト者は差別をしてはなりません。差別は分裂と破綻の種になるからです。この言葉を覚えてほしいです。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(ヤコブ2:1) 2.だます者ヤコブをだます息子たち。 ヤコブという名前の原文的な意味は「かかとをつかむ」という意味です。そして彼のあだ名は「だます者」でした。「かかとをつかむ者、だます者」と呼ばれたヤコブであったにもかかわらず、神はご自分の民イスラエルと名付けてくださいました。彼の罪とは関係なく、アブラハムとの約束に基づいて、彼を一方的に受け入れてくださったのです。ヤコブが、正しい人だからではなく、アブラハムと神の約束によるものだったのです。ヤコブは生まれる前から兄のかかとをつかみ、若い頃には長子の祝福を横取りするために自分の父親のイサクをだましました。ヤコブには貪欲とごまかし、偽りがあり、そのような罪の姿はイスラエルという名前をいただいても残っていました。ところが、今日の本文では、この「だます者」ヤコブが、他のだれでもない自分の息子たちに騙される場面を目撃することができます。「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください。と言わせた。」(37:31-32) ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちは目の敵のようだったヨセフが、自分たちを探しにきた時、彼を捕らえて、晴れ着を脱がし、穴に投げ込みました。そして彼を殺そうとしました。しかし、ユダの説得によって彼らはヨセフをイシュマエルの商人たちに売ってしまい、彼が着ていた着物を雄山羊の血に浸し、父親ヤコブに送り届けました。自分たちの憤りを晴らすために弟を売って父をだましたのです。 かかとをつかむ者、だます者だったヤコブは、一生、人をだまそうとする生き方をとって生きており、主の恵みによって、やっと主に立ち返ったのです。しかし、彼の過去の生き方は息子たちによって、再び繰り返されます。創世記の物語を見ながら私たちはアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブを通じて、いくら神に呼ばれた存在だといっても、彼らの子供たちは再び、主の御前で罪を犯してしまうことが分かります。アダムの息子カイン、ノアの息子ハム、アブラハムの孫ヤコブも、自分の罪から自由ではありませんでした。そして結局、ヤコブの息子たちも、過去の先祖たちがしたように、愚かさと罪の中に生きていきました。これは単純に今日の登場人物だけの問題ではありません。これは、今を生きている私たちの問題でもあります。罪はしつこいです。絶対に消えません。消そう消そうとしても、またよみがえってしまう、恐ろしい怪物のようなものです。罪は主イエスが最後の裁きのために再臨される日まで存在し続けるでしょう。キリスト者である私たちにも、罪は残っており、私たちが死んでも、その罪は再び私たちの子孫を通じてよみがえるでしょう。神が主イエス•キリストを遣わされた理由は、この恐ろしい罪の影響力を無力にするためです。主イエスが再び来られるまで、人間はいつも罪と共にいるでしょう。しかし、神は主イエスの十字架の恵みを通じて、その方を信じる者たちの罪をお赦しになり、まるで罪がないように見なしてくださるのです。 3。悲劇から希望を造り出される神。 しかし、神は、このような罪深い人間の状態にも関わらず、ちっとも動揺なさらず、ご自分の計画通りに歴史を導いていかれる方です。兄たちの罪によってエジプトに売られたヨセフが、結局、ヤコブの家族と、当時のカナン地域の数多くの命を救うエジプトの偉い総理になるからです。近くから見れば悲劇のような今日の出来事ですが、遠くから見れば数多くの命を生かす神のご計画の一部だったからです。実際に多くの聖書の解釈者たちが、ヨセフという人物を旧約で見られる「メシアのモデル」だと考えました。父の命令によってシケム(34章でヤコブの息子たちが原住民を略奪した所、罪の場所)にいる兄弟たちを探しに出たヨセフ、兄弟たちをあきらめず、最後まで探し回るヨセフ、ドダン(ドタンの意味は穴)で兄たちに会ったが、むしろ苦難を受けてエジプト(象徴的に死)に売られるヨセフ、しかし、神の恵みによりエジプトとカナン地域を圧倒する権力者になるヨセフ、そして自分の家族と共に数多くの人々を飢饉から救うヨセフ。このようにヨセフの物語は、まるで、父なる神によってこの地上に遣わされ、罪人を探し、苦難を受けて死に、復活してこの世を治めるというキリストの物語と非常に似ています。 キリストの死が滅亡の虚しい死ではなく、真の命を造り出す救いのための死だったように、ヨセフが売られてしまう出来事も、ただの虚しい悲劇ではなく、より大きな神の御心の成就のための準備段階だったのです。創世記49章でヤコブは実際にヨセフをメシアのように描写しています。「彼の弓はたるむことなく、彼の腕と手は素早く動く。ヤコブの勇者の御手により、それによって、イスラエルの石となり牧者となった。どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。」(49:24-25)神は悲劇の中で希望を創り出される方です。いや、悲劇さえも神の徹底した計画と摂理の中にある神の道具に過ぎないのです。私たちはこのような神の全能さに希望をかけて生きるべきです。今の全世界は軍事的、経済的、衛生的、自然気候的に非常に危険な状況に置かれています。少しだけ私たちの日常から目を逸らして世の中を眺めると恐怖を感じるしかありません。しかし、このすべては結局は神の計画と摂理、統治のもとにあることを忘れないようにしましょう。すべては神の御手のうちにあります。そこから慰めを得る私たちになることを願います。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Ⅰヨハネ4:9) 締め括り 今日は3つの点について話しました。一つ目、差別は分裂を生む。キリスト者は差別してはならない。二つ目、罪は絶えずよみがえり、人間を惨めにする。しかし、神はその罪を無力にするためにキリストを遣わされた。三つ目、ヨセフの物語は旧約に現れるキリストのモデルである。神はいかなる悲劇の中でも、その悲劇まで計画の一部にされ、希望を創り出される方である。ヨセフは本格的にエジプトでの歩みを始めます。今後、神は彼をどのように導いてくださるでしょうか。ヨセフの物語を通じて神の導きと愛を憶える私たちになることを願います。今週も神の愛と恵みにあって安らぎの一週間を過ごされますように祈ります。

栄光とは何か

詩編62編8-9節(旧895頁) ルカによる福音書23章39-43節(新158頁) 前置き 前回の説教の時は、本当に残念な気持ちでした。非常に大事な栄光の意味についての内容でしたのに、まともな説明が出来なかったからです。到底、満足が出来ない説教だったと思います。前回の説教での「人の子」に関しては、皆さんがほとんどお分かりだったと思います。一方では強力なメシアとして来られた人の子、また他方では弱い人間として来られた人の子、人の子であるイエスのその両面性を通して、私たちの救いを成し遂げてくださった主について学んだのです。その次はその人の子の栄光に関する内容でしたが、私はその「栄光」という概念を、聞き取りやすく説明することが出来なかったと思います。そこで、今日は、予定されていた創世記の説教を来週に延ばして、聖書が語る「栄光」の意味についてもう一度詳しく話してみようとしています。できる限り、分かりやすく説教を準備しようと自分なり努力しましたが、多少、抽象的な内容でもありますので、難しく感じられる方がおられるかもしれません。しかし、明らかなことは聖書が語る「栄光」は、世間が漠然と考えている「ただの栄えた光」ではないということです。栄光の意味を正しく理解する時に、私たちは、なぜキリストが十字架につけられなければならなかったのかが分かるようになり、人の子であるイエスの栄光とは何かについて正しく理解することができるようになると思います。どうか主が悟りを与えてくださいますように祈ります。 1。誤解しがちな栄光の概念。 ルカによる福音書23章には、イエスと共に十字架につけられた、二人の犯罪人の物語が登場しています。二人の犯罪人のうち一人は、イエスをののしりつつ「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と叫びました。彼は本当のメシアなら強い権力があるはずだと思っていたようです。すると、もう一人の犯罪人が、彼をたしなめて言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」彼はメシアの権力ではなくイエスというメシアの存在自体に注目したわけです。私たちは、これを通じてメシアに対する2種類の人間像を見ることが出来ます。一人は「メシアという存在ではなく、その権力」を追求する者、もう一人は「権力とは関係なくメシアの存在自体」を追求する者です。おそらく、世の多くの人々はイエスをののしり叫んだ、前の犯罪人のような見方でメシアを理解しているかもしれません。そして、そのような「強くて圧倒的な権力」がメシアの栄光だと思うかもしれません。しかし、聖書はもう一人の犯罪人の見方からメシアの栄光について語っています。「権力の有無とは関係なく、もっぱら神の御心に服従し、何の罪もなく十字架にかけられたメシア」の存在そのものを栄光だと語っているのです。この二人の犯罪人の中で、果たして誰がメシアの栄光を正しく理解しているのでしょうか? 話を変えて、中世のカトリック教会はイエスをののしった犯罪人のような見方から神の栄光を理解しようとしていました。 権力、名誉、財物を神の祝福であり、栄光だと思いました。まるで、メシアの権力を望んだ、今日の犯罪人が持った見方のように、神の栄光を間違って理解したのです。その結果、中世カトリック教会は権力、名誉、財物のために数多くの不正と犯罪、戦争をもたらしてしまいました。そういうわけで、堕落したカトリック教会から抜け出して宗教改革を打ち立てた信仰者たちは、権力としての栄光を追求していた中世カトリックの神学を「栄光の神学」と名付け、中世カトリック教会の「栄光への誤解」を批判しました。宗教改革者たちは、神の御心に従順に聞き従い、十字架の上で死ぬまで服従されたイエスそのものから真の栄光を見つけようとしたのです。神は十字架のいけにえとして、数多くの人類を救ってくださるためにイエスを遣わされました。そして、イエスは十分な力があったにもかかわらず、神の御心に服従し、自ら死んでくださいました。その結果、神はキリストの死を通して、罪人の救いという御心を成就されたのです。宗教改革者たちは、死ぬまで従順に行われたイエスの生き方を追い求め、自らの神学を「十字架の神学」と名付けました。十字架で死んでくださったイエスと、その存在自体から、神の栄光を見つけようとしたわけです。私たちは、栄光についてどんなイメージを持っているでしょうか。「圧倒的で強力で輝かしい何か」を思い起こしているのではないでしょうか? しかし、神の御心への服従と十字架上でのみすぼらしい死から、はじめてキリストの栄光が現れたことを忘れてはならないと思います。 2.栄光の真の意味について。 以上の話を聞いて、聖書が語る栄光は漠然とした「圧倒的で強力で輝かしい何か」のイメージではないということがお分かりになったと思います。それでは、栄光とは何でしょうか。内容が複雑で難しくなると思いますので、単刀直入に結論から話して説明に移りましょう。「ある存在が自分らしく存在する状態。その存在について正しく知り、正しく言い表す(告白)こと」が聖書が語る栄光のイメージです。つまり「神が神らしくいらっしゃること。」が神の栄光であり、「その神について正しく知り告白すること」が神を信じる者の栄光という意味です。父なる神においては、その存在自体が神らしい状態です。創り主ですから存在なさる自体がすでに栄光であるのです。(神が存在しなければ、世界も存在できない)  救い主イエスにおいては、十字架で死んで復活し、民を救われることが救い主らしい状態です。主イエスはすでに死に、復活され、民を救われましたので、栄光の中におられます。助け主、聖霊においては、神の民を助けて導かれるのが助け主らしい状態です。聖霊はすでにその民を助け導いていらっしゃいますので、もう栄光の中におられます。そして、以上の三位一体なる神の栄光について正しく知り、信じ、告白することこそが、まさに神にかたどって創造された人間がとうぜん取るべき人間らしい状態、つまり人間の栄光なのです。 もう少し詳しく説明してみましょう。聖書の原文には栄光を意味する二つの表現があります。一つはヘブライ語の「カーボード」で、もう一つは先週も取り上げましたギリシャ語の「ドクサ」です。「カーボード」は語源的に「重い」という意味です。私たちは「慎重な人」という表現をよく使います。それは「重みがあり、忠実である」というイメージでしょう。カーボードもそれと似たイメージです。「ある存在が自分の存在理由にふさわしく重みと忠実さを持っているさま」なのです。旧約聖書が語る「栄光」は、ある存在が自分の存在理由に重みを持って忠実である状態を意味します。ある存在の強い力や輝かしい光ではなく、もしそれらのものがなくても、その存在自体が持つ存在理由に忠実な状態がまさに光栄なのです。言い換えれば「ある存在が自分らしく存在すること」という意味です。それでは新約聖書は何と語っているでしょうか。先週の取り上げましたギリシャ語の「ドクサ」がそれです。新約聖書で栄光を意味するギリシャ語「ドクサ」は「~に対して正しい見解を持つ。~に対して正しい見解を持たせる)を意味します。言い換えれば「~について正しく知る。~について正しく知らせる)」という意味です。「ある存在について正しく知っていること。 正しく言い表すこと。」とも言えるでしょう。それがまさに新約が語る栄光の意味なのです。 したがって「誰かが自分の存在に重みを持って忠実であること 」「ある存在について正しく知り、正しく言い表すこと」が、聖書が語る栄光のイメージなのです。そのような意味として、先週の本文に出たヤコボとヨハネ兄弟は、イエスに大変な失礼を犯してしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ 10:35,37) 私たちは先ほど、救い主イエスの栄光とは「十字架で死んで復活し、主の民を救われる救い主らしい状態」を意味すると言いました。つまり主イエスの栄光は、他人とまったく共有出来ない、十字架での犠牲と復活から生まれるものです。弟子たちが主イエスの栄光を分け与えられるためには、まずは死ななければならなりません。しかし、死んだと言っても罪のある二人は他人を救えません。主の栄光は他人と分かち合えないものです。なのに、弟子たちは主の栄光の意味を正しく知らずに、ただ欲しがったわけです。それで、イエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(マルコ10:38) それでもヤコボとヨハネは「できます」と、せんえつな言動をしました。キリストの栄光は「キリストがキリストらしくおられること」すなわち、「十字架の死と復活による民の救い」を意味します。それらは誰とも共有できないキリストだけに託された栄光なのです。それに対する人間が受けるべき栄光は、ただただ「キリストの存在理由を正しく知り、正しく告白することだけです。 3.現在を生きている私たちにとって栄光とは? したがって、私たちは栄光に対して、誤解しないようにしましょう。栄光とは太陽のように輝き、台風のように強い、波のように激しい何かを意味するものではありません。神の栄光は「神が神らしく存在なさること」であり、そのような「神のことを正しく知り、正しく言い表す(告白)こと。」が信者の栄光なのです。もちろん聖書には神の栄光を「圧倒的で強力で輝く何か」のように描くときもあります。しかし、それは全能なる神であるゆえに当然に現れる、権能なのです。それ自体が栄光ではないということです。神の栄光が持つ最も重要な意味は「神が神らしくいらっしゃることと、それを正しく知り、告白すること。」です。ここで私たち自身に適用したいことがあります。「正しく知り、告白すること」という表現です。大信仰問答10問には、このような言葉があります。「まことの神を知り、そして、信ずることは、神を崇め、神の国と神の義とを求めて生きることである。」正しく知るということは、正しく信じることを伴います。そして正しく信じる者は、正しく神を崇め、神の国と神の義とを求めて生きるために、自分の信仰を公に告白する者です。私たちが礼拝の時、信仰を告白する理由も、私たちの知識と信仰を神と人の前に公に告白するためです。そのような意味として、「正しく知り、正しく告白する、私たちの信仰」は、私たちキリスト者にとって「栄光」になるのです。神を知り、信じて、告白することこそが、私たちが私たちらしく生きる存在理由、まさに私たちの栄光であるのです。 締め括り 今日の説教は先週よりは聞きやすかったでしょうか。もしかしたら依然として難しく感じられる方がおられるかもしれません。私にも神学が難しいです。しかし、大丈夫です。 皆さん、お忘れになっても問題ありません。いつか、また聞く機会があるでしょう。そもそも聖書も、説教も、何度も読み、何度も聞いて学び続けるべきものだからです。ただし、これ一つだけは覚えてほしいです。神の栄光とは、漠然とした「圧倒的で強力で輝く何か」ではなく、「神が神らしくいらっしゃること。」であり、キリスト者の栄光とは「その神のことを正しく知り、正しく告白すること」であるということです。この二つだけを覚えてくださっても、今日の説教は成功だと思います。最後に詩篇の言葉を一節読んで説教を終えたいと思います。「わたしの救いと栄え(栄光、カーボード)は神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」(詩編62:8) 神の栄光と私たちの栄光への正しい理解を持って信仰生活を続けていきたいと思います。今週も主の栄光にあって生きていく志免教会になりますように祈ります。