神の国の主権者キリスト。

出エジプト記14章13-14節(旧116頁)マルコによる福音書4章35-41節(新68頁) 前置き マルコ福音書でイエス・キリストが最初に言われた言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。イエスはこの地上に神の国を成し遂げるためにおいでになった方です。初めの人の過ちによって生まれた罪は、この世を堕落させました。その堕落によって、人は自分だけのために生き、他人を憎み、殺し、苦しめる存在となりました。そして、その人の罪によって、この世の他の被造物も苦しむことになりました。イエスが罪によって堕落した、この世に神の国を成し遂げるということは、罪によって汚れている世を、神の愛と恵みを通して回復させる、新しい創造の意味を持っています。つまり、初めに世界を創造された三位一体なる神ご自身でいらっしゃるキリストが、十字架での贖いを通して、この世に創造の時の純粋さを取り戻させるために来られたわけです。マルコ福音書でイエスが悪霊を追い払い、病人を治し、貧しい者を助けられた理由は、まさにこの神の国の到来がご自身を通して成就することを示されるためでした。我々はマルコ福音書を読むとき、イエスの全ての御業の根拠が、この神の国の成就にあることに留意しつつ読むべきです。 1.神の国とは何か? 先々週の大信仰問答の学びでは「神の国」について考えてみました。「問8、神の国とはどういうものですか? 答 、神の国とは、神が世界と、その中のすべてのものを、御心のままに現に支配しておられる秩序と、終わりの日に成就される約束の国とを含めていうのです。」神の国とは、終わりの日のイエスの再臨に伴って完全に成し遂げられる新しい天と地を意味することです。また、それと共に、まだ完全ではないが、主の秩序によって治められる、地上のすべての物事を意味するものでもあります。なので、改革教会では、神の国が「すでに」と「まだ」の間にあると言われています。まだ、イエスの再臨の前なので、 神の国が完全に成就されていないが、主イエスに遣わされた聖霊が、すでに教会と共におられるので、この世に神の国が成し遂げられていく状況という意味です。だから、イエスを信じ、その御言葉に従順に生きる私たちキリスト者は、すでに神の国を生きている存在です。私たちは、時には苦しみや悲しみを感じたりします。この世での人生が天国どころか地獄のように感じられる時もあるはずです。しかし、神は私たちの状況を常に見守っておられ、私たちの人生の中において共に歩まれ、その苦しみと悲しみを共に担ってくださる方です。我々が神の国に生きているという意味は、まさにそういうことです。私たちと永遠に一緒におられるという御言葉を確信する限り、私たちは神の国の民としてこの世を生きていけるのです。 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(4:11-12)ところで、主はこの神の国についての秘密を、この世のすべての人に与えたわけではないと言われました。前回のマルコ福音書の説教で主が「種をまく人の喩え」を言われた時、人々はその意味がまったく分かりませんでした。そこで、弟子たちは、主にその意味について尋ねました。その時、主は誰もが「神の国の秘密」を聞けるわけではないことを教え、弟子たちに本当の意味を教えてくださいました。その後、また他の喩えを聞かせてくださりながら(4:21-34)神の国の秘密は「聞く耳のある者だけが聞く」と言われました。ここで「聞く耳がある者」とは、誰を意味するのでしょうか?単刀直入に言うとアラン·コールという神学者は、自分のマルコ福音書の解説書を通して、「主の御言葉を聞き、受け入れ、実践する人」と語りました。つまり、主の御言葉を信じ、生活を通して真剣に答える者を意味するのです。このような人々は、いかなる苦難や逆境があっても、主の御言葉をしっかりと握り、最後まで主に付き従うことでしょう。そして、神の国はこのような者に許されるのでしょう。それではこのような神の国の性質を覚えつつ、今日の本文について取り上げてみましょう。 2.突風の中の主と弟子たち。 「その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」(35-36)1章から4章まで、イエスは引き続き、カファルナウムにて、病人を癒し、悪霊を追い払い、福音を教えておられました。いよいよカファルナウムでの活動が終わった主は、船に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと言われました。5章によると、その向こう岸にはゲラサという地域があったそうです。ゲラサには異邦人が住んでいました。それからイエスが向こう岸に行かれた理由が異邦人にも癒しと教えと宣教をくださるためであるということが分かります。ところで、イエスが「向こう岸に渡ろう」と言い終わるやいなや、弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。私達はここで「乗せたまま」という表現に注目する必要があります。確かに渡ろうと言われた方はイエスでしたが、イエスを乗せたまま、動いているのは弟子たちでした。この語句での主語がイエスではなく、弟子たちであることが気にかかります。ところで、しばらくして北の方から風が吹き出しました。ガリラヤ湖は普段は穏やかなほうですが、時々、北のヘルモン山から下りてくる冷たい空気と昼間に暖められた湖の暖かい空気が会い、2M超えの波が打つほどの大きな突風を起こしたりします。ところで、よりによって、イエスと弟子たちが乗った船が、その激しい風に巻き込まれてしまいました。 「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、先生、私たちが溺れても構わないのですかと言った。」(4:37-38)36節で主体的に行動していた弟子たちが、突然の突風に恐怖を感じ、イエスを探しました。その時、主は艫の方で眠っておられました。艫の方とは船の後尾との意味ですが、弟子たちが船首におり、主は後ろに静かにおられる様を描いている表現です。弟子たちは主を「乗せたまま」、まるで自分たちがイエスを連れていくかのように行動していました。しかし、突風が起こると、イエスを連れていくかのように振舞っていた弟子たちは、みんな怖がり、急いで艫で静かに眠っておられるイエスを起こしました。自分たちが死ぬようになったと言い、助けを求めて叫んだのです。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、黙れ。静まれと言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。(4:39-40)その時、イエスは目を覚まして、風と湖を叱り、突風を静めてくださいました。そして、イエスと一緒にいるにもかかわらず、主を信じず、恐れていた弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と叱られました。それを見た弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とイエスの権能に驚きました。 3.神の国の主権者イエス·キリスト 我々は今日の本文のことを単純に自然までも治めるイエスの武勇談とだけ見てはならないでしょう。先ほどお話ししました神の国という概念に基づいて理解すべきでしょう。神がご計画なさった堕落したこの世の回復、すなわち神の国の到来は徹底的にイエス・キリストを中心とする神の権能によってのみ現われるものです。「神の国」とは人間の能力、財力、手腕によって成されるものではなく、御父の計画と聖霊のお導き、とりわけ御子の権能によって成されるものです。今日、主と弟子たちが乗った船は、いわば教会の象徴のようなものです。神が計画され、お創りになった、この世は本来、突風のない穏やかな海のようなところであるべきです。しかし、人間の罪によって生まれた堕落は、この世をまるで突風の海のように無秩序で破壊的に作ってしまいました。イエスはこのような世の中に一筋の光を下さるために、ご自分の教会を打ち立てられたのです。しかし、この世の中で今日の本文の弟子たちのように自分が船、つまり教会を動かそうとすれば、結局、その教会は突風の海のようなこの世の激しさに堪えられず、滅びてしまうでしょう。また、これは教会に限ったことではありません。この突風の海のような世を静める方は、ひとえにイエスお独りです。しかし、イエスでない別の存在が世を静めようとするならば、結局、その存在は堕落した世という突風の海に巻き込まれ、滅びてしまうでしょう。 文明が生まれて以来、人間はいつも自ら世を導こうとしてきました。ところで、皮肉なことは、その度に戦乱があったということです。人間が自ら歴史を導こうとする時には、必ず戦争が起きて、多くの人が亡くなりました。かつて日本帝国は「大東亜共栄圏」という合言葉を掲げ、アジアの解放という口実で戦争を引き起こしました。しかし、その戦争で日本人だけで300万人、アジアでは数千万人が亡くなりました。アメリカ合衆国は、こうした日本を退けて平和をもたらすためにという名目で歴史上初めて核兵器を落としました。その結果、25万人余りが死に至りました。さて、歴史上の教会はどうだったでしょうか。教会が起こした十字軍戦争は200年にわたって数多くの虐殺をもたらしました。旧教と新教の戦争で多くの人が死んだこともあります。このすべてが人間がこの世や教会を導こうと起こしたことでした。真の繁栄と平和の神の国のような世界は人間の手では成し遂げられないものです。ひたすら主イエスの御言葉を信じ、聞き従って生きる時に、主が私たちの中で成し遂げてくださるものです。いつか、この世に真の平和の神の国が訪れるでしょう。突風が静まった穏やかな海のような真の神の国が臨むことでしょう。しかし、それはイエスが再臨されて完全にこの世を裁かれ、治められる日にはじめて成就されることなのです。その日まで私たちに出来ることは、イエスを待ち望むことと、その御言葉に従順に聞き従って生きることでしょう。そのような人生を通して私たちは主と共に「すでに」と「まだ」の間の神の国を味わいつつ生きていくことでしょう。 締め括り 今日の旧約本文は出エジプトの時、ファラオの騎兵たちがイスラエルを追い掛ける時のことでした。目の前には海が立ちはだかっており、後ろからは怒った騎兵たちが戦車に乗って迫ってきています。まるで、今日のガリラヤ湖の突風の中の弟子たちのように、危機一髪の状況でした。その時、神の御言葉をいただいたモーセは次のように叫びました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:13-14)イスラエルは死を目の前にしていましたが、そこには神がいました。目の前には海、背後には騎兵たちがいましたが、イスラエル民族には主の御守りがあったのです。神の御言葉に従った結果、彼らは無事に死から逃れることができました。真の神の国とは、主だけが成し遂げられます。私たちはただ、その主の御言葉を信じ、聞き従えばいいのです。毎日の人生の中に不可能なことがたくさん見えてきます。そして、それに我々は恐れを感じます。しかし、主権者キリストは、神の約束のように我々と共におられます。そして、その不可能に勝たせてくださいます。この主イエスの権能の中に生きることこそ、神の国を生きるあり方ではないでしょうか。主が私たちの人生を穏やかな湖のようにし、完全な神の国が成し遂げられるまで私たちを導いてくださると信じましょう。神の国の主は神の国を生きる私たちを決して諦めることなく、共に歩んでくださるでしょう。

繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁)ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、酷い飢饉に襲われ、飢饉を避けてエジプトに下りました。エジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹だと騙さなければならない命の危機に遭いました。以降、神のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、また、自分の相続人だと思っていた甥のロトと財産の問題で別れることになりました。その後、離れていた甥を救うために命をかけて、大きな戦いに参戦することにもなりました。神に約束された息子の誕生は時間が経っても兆し無しで、神のご意思とは関係なく迎えた側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子も神に約束された相続人ではなかったのです。「神の民」という呼び名が形だけのものに思えるほど、アブラハムの人生は波乱万丈そのものでした。しかし、そのようなアブラハムの人生の中でも、全く変わりのなかったのは、神がアブラハムを見捨てられず、常に共に歩んでくださることでした。神はアブラハムと契約を結ばれ、その契約関係の中でアブラハムの間違いを罰されず、その間違いさえ抱え込み、彼の人生の道に、いつも一緒にいてくださいました。キリスト教信仰の最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に一緒に歩んでくださるということです。私たちは今日の本文を通して、アブラハムの失敗を再び目撃することになるでしょう。しかし、それと共に、決してアブラハムのことをお見捨てにならない神の愛をも再び目撃することになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人と評価される人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」という表現があるほど、聖書を基盤とするキリスト教信仰において、彼の存在感は非常に大きいです。それだけに聖書を神の御言葉だと信じているキリスト者にとっても、旧約のアブラハムという人の影響は、新約でのイエスに肩を並べるほど非常に大きいです。しかし、かつて私は、このアブラハムという人が非常に気に食わなかったです。その理由は、まさに今日の本文のことのためでした。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹だと騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てるといった失敗を再び仕出かしてしまい、まったく成長していない様子を見せているのです。12章とあまり変わりのないアブラハムの繰り返される信仰の失敗に失望感を覚えた私は、彼を「妻を二度捨てた情けない人間だ。」と思うようになりました。そのため、アブラハムのことが気に入らなかったわけです。 創世記12章でアブラハムは神に何も問わず、飢饉を避けて身勝手にエジプトへ下りました。そして神にも、妻にも大変な無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返し失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。しかし、アブラハムは、長年の信仰の成長を経験してきたにもかかわらず、今日の本文に至って、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯してしまったのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれたアブラハムと肩を並べるほどの大事な人物でした。約束の相続人イサクを産む妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破ってしまう大きな裏切りでした。しかし、アブラハムが同じ間違いを犯す今日の本文を見ながら、「これが人間の本質なのか?」という気がしてきました。我々は信仰を持って以来、戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代を生きてきました。個人的な苦難はあったはずでしょうが、わりと平和な世の中で信仰生活をしてきたのです。ところで、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じるほどの状況だったら、果たして私たちは信仰を守り抜くことが出来たのでしょうか。ひょっとしたら繰り返されるアブラハムの失敗は、私たちの姿を映す鏡のようなものなのかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、我々はアブラハムと違う姿をとることが出来るでしょうか。 2.なぜ同じ話が繰り返されるのか? ところで、アブラハムは、なぜ同じ失敗を繰り返したのでしょうか? 過去、旧約学を勉強していた時、今日の本文についての面白い主張を読んだことがあります。それは、創世記12章と20章が、ひとつの言伝えから枝分かれされた物語だということでした。つまり、12章の「エジプトのファラオ」と20章の「ゲラルのアビメレク」が登場する、似ている物語が、地名と人名だけ違い、アブラハムが妻を妹だと騙したこと、神が現れてアブラハムを危機から救ってくださったことなど、同じ言伝えから派生したものだということでした。この主張は、かつて旧約学界に大きな響きを与えた「文書仮説」という学説によるものです。昔、創世記が記される、ずっと前から、アブラハムに関する断片的な、いくつかの物語はイスラエル民族の口から口に伝わり、こうした数多くの言伝えが数人の無名の記録者たちによってまとめ記されたという学説です。また、その学説の中には、長い時間、編集されてきた聖書に、その記録者たちが自分の神学に合わせて、似たような物語を意図的に加えた可能性もあるという主張もありました。つまり、もともとアブラハムが妻を捨てた話は、一度だけのことですが、以後、聖書を編集した記録者たちが、似たような物語を別の出来事のように追加し、それが創世記20章になったという仮説なのです。しかし、このような文書仮説は、あくまでも仮説ですので、定説として受け入れてはなりません。非常に注意すべき主張なのです。しかし、それでも私は文書仮説が主張する「意図的に加えた。」という文章を通して、小さいヒントを得ることが出来ました。12章と20章に繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語が、ひょっとしたら、神がご自分の移り変わりのない愛を示されるための意図的なしるしではないかということでした。創世記に記されているアブラハムの最初の罪と最後の罪が、仕組まれたように「妻を捨てる。」という非常に似た出来事だったからです。 現代の私たちは、創世記が一人によって記された書なのか、長い間、多くの人によって記された書なのかは分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、神が深く介入され、導いてくださったということ、そして、我々に主の御言葉として、この創世記をくださったということは否定できない事実なのです。なので、私たちは創世記 12章と 20章の繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語を通して、神が私たちに示しておられるしるしが、確かにあるということは信じるべきでしょう。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験することがあり、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵がなければ、絶対に一人で立てないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の真の意味ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3) 神は創世記12章でファラオを罰されたように、今回はアビメレクにご警告なさり、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは繰り返される罪による失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを救ってくださったのです。神の民にいくら信仰があるといっても、その自分の信仰だけで完全に立つことはできません。民と共におられる主の存在によってのみ、民の信仰は輝くものなのです。私たちはアブラハムの繰り返される失敗に失望するより、それでも絶対に諦められない神の愛への感謝を持つべきでしょう。もしかしたら、このアブラハムの失敗へのお赦しが、私たちの失敗へのお赦しを意味する鏡であるかもしれないからです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)正直、今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムのように見えます。古代に、一つの勢力が拠点を移す際に、他の勢力の暴力的な牽制を避けるために、家族を人質として差し出すという話もありますが、当時のアブラハムはカナンで力も、富もある結構有名な人で、妻サラはすでに100歳近くの年寄でした。ある学者たちは、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈したりもしましたが、説得力は弱いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的若かったので、命のために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力も持っていたアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父と呼ばれるに恥ずかしいほどの、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきことです。まさにアブラハムのことを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父に相応しく行動していた時も、情けない信仰の失敗者のように振舞っていた時も、変わることなく「主の民」「神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約を見ておられたからです。これはキリストの福音に非常に似ています。私たちキリスト者は、自分自身の義によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰に生きたり、時には不信仰に生きたりします。いや、むしろ信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも神は、私たちを救ってくださったキリストの義をご覧になり、私たちをご自分の民として認めてくださいます。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初に犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は最初の罪から最後の罪まで、いつも同じように彼を守ってくださいました。正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、我々を神への道に導いてくださるでしょう。繰り返される罪の中でも、主は満ち溢れる恵みを持って私たちの人生を導いてくださるでしょう。その主をほめたたえます。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。葡萄の枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身は葡萄の木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として私たちの記憶に刻まれています。アブラハムが偉大な人物に覚えられる理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずつながっていたからです。我々キリスト者も依然として、とるに足りない存在です。しかし、神はキリストにつながっている私たちを見ておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道に導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れないようにしましょう。失敗したら悔い改め、お赦しの神を最後まで信じ抜いていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるでしょう。繰り返される失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を覚え、神のもとにいる者として生きていきましょう。

福音の種と心の畑。

イザヤ書6章8-13節(旧1070頁) マルコによる福音書4章1-20節(新66頁) 前置き イエスの時代のイスラエルの民は、旧約の予言によって約束されたメシアが必ず来るだろうと信じていました。昔、神とアブラハムの契約によって約束された大いなる国民、モーセの導きによって民族の基礎を築いた選ばれた民族、偉大な王ダビデを通して築き上げられた強力な国家であることなどと。イスラエルは過去の栄光が再びもたらされると信じていました。メシアが現れ、かつてのアブラハムやモーセ、ダビデのような偉大な業を成し遂げるだろうと待ち望んでいたのです。つまり彼らが待っていたのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国と異民族出身のヘロデ王を追い出し、強力な国家を再建する政治的なメシアでした。しかし、ある日突然現れ、メシアと呼ばれたナザレの青年は、あまりにもみすぼらしい者でした。彼には軍隊も宮殿もありませんでした。いつも弱くて貧しい人々といる元大工にすぎなかったのです。そのため、マルコによる福音書3章ではイスラエルの指導者たちも、彼の家族たちも、彼を認めませんでした。しかし、彼の外見ではなく、真の価値を見抜いた人々には、人生が変わるほどの癒しと回復が与えられました。今日の言葉は、そのような3章の内容と深い関係を持っています。種を蒔く人の種として描かれた福音をどのように受け入れるかによって、その結果が変わるということを教えてくれるのです。 1.古代イスラエルの種まきの方法。 まずは、今日の本文に出てくる種を蒔く人の喩えが持つ背景から探ってみましょう。古代イスラエルでも基本的には現代の農業と同じような仕方で種まきをしていたそうです。つまり、種を蒔く前に土を耕して、その上に種を蒔き、覆うことです。「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。」(ホセア10:12)旧約聖書は、それを「新しい土地を耕す。」と表現しています。このような種まきの仕方は、小麦や大麦の種まきに用いられたのですが、冬の間、固まった土地を耕し、種が深く根を下ろせるように春の農作業によく用いられる仕方でした。ところで、イスラエルでは日本の稲作のように丁寧に田植えをするのではなく、小麦や大麦などの種を適当に撒き散らす方法を取っていたそうです。イスラエル地域は年間降水量がそんなに多くなく、土地には塩分が多かったので、水田農業に不適合なところだったからです。つまり、稲が育たない環境だったのです。そのため、主な穀物は乾きや塩分に強い小麦や大麦などでした。これがイスラエルの主な春の農作業でした。小麦や大麦以降の夏の農業としては、ぶどう、いちじく、オリーブなどがほとんどだったそうです。なので、今日のイエスの喩えは、まさに春の耕しの後の小麦と大麦の農作業に関するお話でした。 ところで、イスラエルは石灰岩が多い地域で、畑を耕しても多量の石や砂利が畑に残っていました。そしてイスラエルは比較的に乾いた気候のため茨の藪などの雑草もたくさん生えていました。だから種をたくさん蒔くと言っても、すべての種がよく育つわけではなかったのです。そういう意味で、日本での農業は自然の特に恵まれていると思います。イスラエルの農夫が小麦や大麦の種を畑に蒔くと、ある種は畑と畑の間の道端の硬い地面に落ちたり、ある種は石灰岩の石だらけで土の少ない所に蒔かれたり、ある種は茨の中に落ちたりするのです。それらの種は、結局鳥に食われたり、日に焼けて枯れてしまったり、腐ってなくなったりするのです。 しかし、その中でも、良い土地に落ちた種は、たくさんの実を結びます。 イエス様はこのようなイスラエルの農業を喩えにして、主の御言葉、つまり福音という種が人々の心の中でどのように反応するのかを説明してくださるのです。主の福音は毎日、聖書を通して、説教を通して、様々な宣教を通して世に伝わっています。信じない者たちにも伝わっていますが、既に信じている私たちにも伝わっています。しかし、そのすべての福音が、いつも実を結んでいるとは言えません。聞く者の心の状態によって、最初から成長しない場合も、しばらく心を響かせてすぐに消える場合も、福音の言葉が深く根を下ろして生活の中に、その恵みが現れる場合もあります。 2.イエスが喩えを通して教えられる理由。 ところで、イエスはなぜ、このような喩えを通して福音の言葉を宣べ伝えられたのでしょうか? 「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」(10)本文によると、イエスの喩えそのものは難しい内容ではなかったようです。ですが、その喩えの真の意味は分かりにくかったようです。 イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい。」(9)と言われ、喩えの本当の意味を悟れる者だけに聞かせてくださいました。 なぜだったでしょうか? 最初から分かりやすく伝え、一人でも多くの人が御言葉を聞いて悟ることが、より良いのではないでしょうか? しかし、我々は、すべての人々が福音を悟り、受け入れるわけではないことを知らなければなりません。確かに神はすべての人のために福音をくださいました。まるで今日、喩えの種を蒔く人のように、すべての人に福音が伝わるように、世界中に主の教会を建て、伝道させてくださったのです。だから、教会は神の御言葉を誠実に宣べ伝え、伝道しつつ生きるべきです。しかし、だからといって私たちの伝道のメッセージを聞いた、すべての人が神を信じるようになるわけではありません。ある人はとんでもない話だと無視したり、ある人ははむしろ反感を示したりします。人の心の畑の状態によって、ある人は道端のような心、ある人は茨の藪のような心、ある人は良い土地のような心を持って神の御言葉に反応するのです。 イエスをベルゼブルの手下だと考えていた律法学者たちは、モーセ五書の専門家でした。彼らはモーセ五書を完全に覚えており、律法書無しで朗読できるほどでした。しかし、彼らは律法の主であるイエスの福音が全く理解できず、むしろイエスを迫害しました。イエスの家族はどうだったでしょうか。イエス様と一生を一緒に暮してきた母親も、兄弟姉妹たちもイエスの福音が理解できなくて、気が変になっていると思っていました。 むしろ、イエスと何の繋がりもなかったイスラエルの貧しい者たち、弱い者たちがイエスの福音の真の価値に気づき、イエス様に付き従ったのです。今日の旧約本文はこう語っています。「主は言われた。行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。」(イサヤ6:9-10)主は真に自分の弱さを認め、神だけが自分を助けてくださる救い主であることを信じ、従順に聞き従う者に御言葉を悟らせてくださる方です。その反面、主を拒否し、自分自身を神のように高める傲慢な者には、むしろ悟りを塞がれる方でもあります。主の御言葉は目で読み、耳で聞くものではありません。主の御言葉は心で聞き、信仰で受け入れる、自らを省み、悔い改める謙遜な者に与えられる祝福なのです。 主の福音の実とは、自分のことを弁え、神の力に依り頼み、完全に聞き従おうとする者たちに与えられる主の恵みなのです。 3.「自分の心の畑を顧みさせる主」 そういう意味で、今日の言葉は私たちにくださる主の教訓でもあると言えるでしょう。教職者だといって皆が主の御言葉に適う人なのでしょうか? 聖書を数十回読み、ヨーロッパに留学し、聖書の原文を勉強し、多くの神学理論を知る牧師だと、果たして立派な信者なのでしょうか? 正直、私は教師としての自分のことを高く評価できません。毎週、説教していますが、自分の説教のように生きられない偽善的な姿が見えるからです。隣人愛を語りながら、隣人を愛していないことに反省させられます。伝道を語りながら、伝道していないことを省みさせられます。もしかしたら私は既に習得した神学理論と固定観念に閉じ籠り、毎日新しく与えられる主の御言葉に鈍く反応しているのかも知れません。そういう意味で、教職者こそ日々悔い改め、絶えず自らを振り返る場に立つべきだと思います。ひょっとしたら教職者が神の御言葉から最も遠ざかっている、まるでイエスの時代の律法学者のような存在かも知れないからです。それでは、私たちみんなはどうでしょうか? 日曜日に教会に出席し、一度、礼拝を守ることだけに満足しているのではないでしょうか? 主日の30分の説教に満足して、1週間ずっと主の御言葉から遠ざかって、御言葉から学んだ教えを実践もせず、道端、石だらけ、茨の藪のような心の畑を持って生きているのではないでしょうか? 伝道も、祈りも、隣人への愛も手放しで生きているのではないでしょうか? 我々は、自分の心の畑が本当に良い状態だと自負できるのでしょうか。今日の言葉を通して、私たち自身のことを顧みる時間になれば幸いだと思います。 主は毎日私たちに福音の御言葉をくださいます。主日の説教を通して、聖書の御言葉を通して、水曜祈祷会の聖書と教理の勉強を通して、絶えず御言葉をくださいます。しかし、その御言葉を受け入れる状態かどうかは私たち次第です。お祈りを通して自らを悔い改め、自分のことを弁え、自分の心の畑が道端ではないか、石だらけではないか、茨ではないか自分の状態をきちんと知り、改善して生きるべきです。改革派神学には「御霊の照明」という表現があります。つまり、主の民が御言葉を聞いたり、読んだりする時に聖霊なる神が悟りの光を照らしてくださるという意味です。キリスト者への御霊の照明は毎日照らされています。イエスは十字架の犠牲と復活を通して、御霊の照明が一分一秒も途絶えることなく私たちに照らされるように恵みを与えておられます。そして、神はそのキリストの恵みの中で、自らの心の畑を耕す務めを主の民に任せてくださいました。我々の心の畑は道端にも、石だらけにも、茨にも、良い土地にもなり得ます。したがって、我々は常に自分の心の状態を綺麗に磨き、主の御言葉にいつでも反応できるように自らの心の畑を立派に耕していくべきです。 締め括り 「イエスは言われた。あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようにするためである。」(11-12) 主イエス・キリストの福音は神の国の秘密です。つまり、誰もが理解できるものではないということでしょう。福音を聞いて、みんなが悟れるのであるなら、少なくとも日本の人口の4割はキリスト者になったはずでしょう。神はすべての人に向けて福音をくださいましたが、それを聞いて受け入れ、悟る人はごくわずかです。しかし、今日の新約本文の13-20節の言葉のように、主を信じるご自分の民たちには悟れる機会を与えてくださいます。だから、我々の心を綺麗に耕し、主の御教えを求めて生きていきましょう。毎日、悔い改めの人生を生き、神の御言葉を大事にし、実践できる力を求めて生きていきましょう。そのような私たちの人生の中に、主はご自分の御言葉による実を30倍、60倍、100倍も結べるよう導いてくださるでしょう。信仰は神と民の相互の契約です。主は悟りを与え、民はその悟りを得るために、聖霊のお導きの中で謙遜に生きるのです。そのような良い心の畑を持って生きていく志免教会になることを祈ります。

逆説的な神の恵み

イザヤ書40章6-8節(旧1124頁) ルカによる福音書15章11-24節(新139頁) 前置き キリスト教でよく使われている言葉の中には、どんな表現があるでしょうか。 まずは「神の愛、隣人への愛」のように愛に関する表現をよく使っていると思います。また、キリスト教の主な教えの一つである「悔い改め」という表現も、よく使われているでしょう。そして、先にお話ししました二つの言葉と同じくらいの頻度で「恵み」という表現も少なからず使われていると思います。「主の恵みに満ちた教会になりますように。」「日本と全世界の教会に主の恵みを注いでください。」などの言葉は、お祈りや説教の時でもよく使われている表現でしょう。「愛、悔い改め、恵み」いずれも大事な表現かと思いますが、特に今日は「恵み」という表現について話してみたいと思います。私たちは何気なく、恵みという表現を口にしていますが、果たして、この「恵み」とは何を意味するものでしょうか。人間が抱いている漠然とした意味としての「恵み」ではなく、聖書が私たちに語っている恵みについて、探ってみたいと思います。 1.ご自分の民を滅ぼされる(?)神。 冒頭から「民を滅ぼす神」というかなり違和感のある表題語が書いてありますが、これは実際に民が神に滅ぼされるという意味ではありません。これは、私たちが漠然と考えている「復興、平和、喜び」ばかりのイメージとしての恵みだけではなく、時には「衰退、苦難、逆境」なども、神の恵みとなり得るということを強調するための表現なのです。恵みとは、ヘブライ語では「ヘセド」、ギリシャ語では「カリス」と言いますが、いずれも「契約に基づいた神の一方的な恩寵、慈悲、憐み、賜物」のことだと言われます。ここで重要なことは「契約に基づく」という表現でしょう。神の恵みとは「人間が身勝手に振舞っても関係せず放っておく。」という意味ではありません。神と人の「契約(旧約の神とイスラエルの契約、新約のキリストと教会の契約)」の中で、神が人を正しい方向に導いてくださるということを意味します。「契約」とは、神が主になって民を導き守り、民は主なる神だけにつき従って仕えるという相互約束としての意味を持っています。つまり、神の御心に従って生きるのが、神との約束に対する人のあり方であるということです。 神は主の恵みの中で、神とのこの契約を忠実に守る者たちを神との旅路にお招きくださいます。そして終わりの日、彼らが神に召され、神のもとへ帰るまで、神は彼らを導いてくださるのです。キリスト教が語る恵みとは、まさにそのようなものなです。天地万物をお創りになった神が、「私」という小さな存在を最後までお見捨てにならず、支えられ、御国に至るまで同道してくださるということです。自分がこの世で権力者になり、すべてのことがうまくいって成功し、お金をたくさん儲け、気楽に生きることが恵みではなく、神の御心に聞き従い、苦難の中でも神を拠り所にし、成功の中でも神を忘れず、主に召されるその日まで、いや死後でも、その神と共に歩むことこそが、まさに真の恵みなのです。だから、もし神の民と呼ばれる者が神の望んでおられる人生を生きていないなら、神の恵みに適う人生を生きていないなら、神は彼を恵みに連れ戻してくださるために、ご自分の民に試練と苦難とを与えてくださる時もあります。その時の試練と苦難は非常に苦しいものですが、結論的には神に帰るための「恵み」となるのです。 2.枯らす恵みの後爆風 私は2001年から2003年にかけて軍隊の炊事兵(調理兵)として生活をしました。ある人は戦闘兵、ある人は運転兵、また、ある人は行政兵として軍隊生活をしますが、私は行政兵に属する炊事兵だったのです。ところで、戦闘兵の中に迫撃砲兵という兵種もいました。迫撃砲とは地面に据え付けて使う武器で、拳サイズの砲弾を放つ武器です。ところで、その砲兵が訓練中に前方に迫撃砲を撃つと、後方の草や木が枯れてしまうことがよく見られるそうです。まさに迫撃砲が噴き出す後爆風のためです。後爆風とは、砲弾が放たれる時に生じる熱や衝撃を、迫撃砲の後尾に噴き出す強い熱風のことです。前方の敵に向かって迫撃砲が発射されますが、その砲の後爆風の故に後方の草が焼けて枯れてしまうのです。いきなり軍隊の武器の話を出して、ええっとされたかもしれませんが、私が神学校に通っていた時、私を指導した担当教授は、このような比喩をあげて神の恵みの特徴について説明したりしました。 神の恵みは、人間の罪によって汚れた世界を新たにする日まで(キリストの再臨の日)この世に生きるご自分の民を諦めない、神の変わりのない愛です。神は主の民を正しい道に導いてくださるために、神の恵みの反対側に向かう者たちを恵みの後爆風で枯らされる方です。主は「愛、信仰、救い、従順、奉仕」を求めておられますが、その反対側で「情欲、不信心、不従順、嫌悪」を追い求める主の民がいれば、彼に人生の試練と苦難を与え、その罪と情欲の生活を枯らし、主のもとに帰らせてくださる方です。たとえば、牧師や宣教師になるという誓願を破って、わがままに生きていた人々が、どうしようもない人生の逆境にあって、結局、神のもとに帰り、教会に仕える場合が、この恵みの後爆風による例の一つでしょう。ただ聖職者だけでなく、病気によって、ビジネスの失敗によってなどの様々な理由で神から遠ざかった人が倒れて帰ってくる場合が多いと思います。今日の新約本文の「放蕩息子」のたとえも一種の恵みの後爆風に関する物語だと思います。 3.逆説的な神の恵み。 ルカによる福音書15章の今日の本文は、キリスト者なら誰もが知っている有名な物語です。ある人の次男が、父の遺産をあらかじめもらって遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くした挙句、結局、全ての財産を無駄遣いしてしまいました。豚の餌さえも食べられなくほど困窮した彼は、結局、我に返って父の家に帰ることになります。その時、父は彼を喜んで迎え入れてくれます。もし彼がすべてを失わなかったら、彼は決して父のもとに帰っていかなかったでしょう。彼の失敗と苦難が、かえって父のもとへ帰る理由になったわけです。その例え話の父親は父なる神の象徴です。このように神は愛する者の回復のために苦難も与えられる方です。愛するからこそ苦難を与えられるのです。まるで親が訓戒によって愛する子供を教えるように、神も戒めによってご自分の民を導いてくださるのです。神の御心に聞き従わない、とあるキリスト者がただ成功するばかりで、何の苦難も経験しないなら、むしろそれは神の祝福ではなく呪いであるかもしれません。神は罪と悪に陥っている愛するご自分の民を枯らしてでも必ず恵みの道へと導かれる方だからです。 このように神の恵みは、人間が漠然と理解している成功や祝福だけを意味するものではありません。最も重要なことは、神様は「民が欲望に満ちて、不正な豊や成功の中に生きるのではなく、神との契約の中で変わることなく共に生きることを望んでおられる。」ということです。その道のりで肉体的な豊や成功が与えられる場合もあるでしょうが、それが信仰の目標だとは言えません。 主の恵みは、この地上での肉体的な幸いだけでなく、死後の永遠の命まで、つながっていることを忘れてはなりません。その永遠の命と幸いのために、主は苦難という名の恵みを下されるのです。だから、苦難と逆境に直面した時の私たちは「神の恵みが切れた。」と考えるより、「神の恵みがより一層強く私たちに与えられている。」と考えるべきです。そのような試練と苦難の中で真の悔い改めを回復し、主のお助けを求めて生きるのが神の恵みへの正しい理解でしょう。 締め括り。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イサヤ40:6-8)旧約のイスラエルの民は自分たちの豊と栄のために神を裏切りました。異邦の偶像を拝み、社会の弱者を苦しめました。強い国には弱者から奪い取った財物を貢ぎました。結局彼らは神に裁かれ、滅びてしまいました。しかし、主は今日の旧約本文であるイザヤ書40章全体を通して、神がイスラエルを滅ぼされても、主の御言葉を通して再び興すと約束してくださいました。この約束は真の主の御言葉でいらっしゃるイエス・キリストによって成就されました。しかし、罪に満ちた過去のイスラエルは草と花のように枯らされました。その代わりに神の御言葉による新しいイスラエル、教会を打ち立ててくださったのです。私たちはこのような逆説的な主の恵みを覚えつつ生きるべきです。ご自分の民を主の道へ導いてくださることこそが真の恵みなのです。欲望の満足が恵みではなく、神の御心通りに導かれるのが本当の恵みなのです。その点を心に留め、主の恵みへの正しい理解を持って生きる志免教会になることを祈り願います。

真実を見抜く目。

 サムエル記上16章1-13節(旧453頁) マルコによる福音書3章31-35節(新66頁) 前置き 人間は世界を自己中心的に認識する傾向の存在です。クイズを出してみましょう。次はどの国に関する内容でしょうか? 「ナシレマッ、プトラジャヤ、バハサ・ムラユ」 おそらく、何のことなのか全くお分かりにならないと思います。それでは、これはいかがでしょうか? 「ハンバーガー、ニューヨーク、イングリッシュ」 この言葉は多分お分かりだと思います。それではこれはいかがでしょうか? 「お寿司、大阪、日本語」一番前にお話ししたのは、マレーシアの代表的な食べ物、ナシレマッ、代表的な行政地区プトラジャヤ、そしてマレーシア語を意味するバハサ・ムラユでした。遠いし、あまり興味がないので、普通の日本人は知らない人が多いと思います。しかし、アメリカの食べ物、都市、言語の場合は日本と多少関係があるため、お分かりになるでしょう。もし寿司、大阪、日本語が分からないなら、その人は日本人ではないでしょう。このように人は自分のことを中心に物事を認識していく傾向があります。このような自己中心的な認識は人のアイデンティティを築いていく大事なものでしょうが、また、多くの偏見と限界をもたらすものでもあります。そのため、人間は世界を自己中心的に歪曲して認識したりします。人間はいつも真実とは関係ない自己中心的な受け入れ方で、すべてのことを判断するものです。今日の本文は、イエスの身内の人々がイエスをどのように認識し、誤解していたのかについて教えています。互いによく知り合っている家族という歪んだ認識のため、メシアを見損なったイエスの身内の姿。このような姿が私たちのなかには無いでしょうか。今日は真実を見抜く目について話してみたいと思います。 1.自分の認識を通してイエスを理解していた主の親族。 今日の本文には含まれていないですが、前回の説教の本文には、このような言葉がありました。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われていたからである。」(マルコ3:21)イエスが貧しい群れを「癒し、教え、宣教している時」主は食事も碌に摂れないほど、ご多忙の状況でした。一方では主は世話をしなければならない可哀想な人々を助けられ、他方ではイエスを中傷する人々と論争をしておられました。当時、イエスに対する評価は二つに分かれていました。1つは、「イエスは神に遣わされた偉大な預言者である。」という肯定的な評価と、もう1つは、「イエスはイスラエルを乱す気狂いである。」という否定的な評価でした。多くの人がイエスに癒され、苦しみから抜け出して自由を得てイエス様を称えました。しかし、ある人たちはイエスの権威を認めず、イエスへの間違った噂を作り出しました。イエスに対する偽りの認識から脱し、信仰を持って頼んだ人々は癒しを得、イエスの本質をまともに認識するようになりましたが、イエスに対する偽りの認識を作り、イエスを信じない人々はイエスを「気が変になっている。」と歪曲してしまったのです。ところで、残念なことに、イエスの身内の人々はイエスについての良い噂ではなく、悪い噂を受け入れたということでした。なぜなら、彼らは家族という固定した視座からイエスを認識していたからです。 聖書には、こういう言葉があります。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけであると言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがお出来にならなかった。」(マルコ6:3-5)いくら、イエスが偉大な命の言葉を宣べ伝えられるといっても、イエスの故郷の人々はイエスを、ただの隣の息子、知り合い、平凡な人として受け入れました。今まで自分たちが持ってきた認識の中においてだけ、イエスのことを考えていた彼らは、神がイエスにくださったメシアという大事な役割への認識を見逃したというわけでした。そして、そのような認識を見逃がした人々に、イエスは何の奇跡も行うことが出来ませんでした。神は人の信仰をご覧になってお働きになる方ですが、歪んだ認識を持っている彼らには全く信仰がなかったからです。同じくイエスの身内の人々は、歪んだ認識による不信仰によって、イエスに与えられた本当の役割、つまりメシアとしてのイエスのことを見抜くことが出来なかったのです。 2.人は自分がすでに認識したものだけを受け入れようとする。 旧約からも認識に関する話が見られます。今日の旧約本文で、イスラエルの第一代の王であったサウルの不信仰の故に、神は新しい王を立てようとされました。そのために神は預言者サムエルをベツレヘムの人エッサイのところにお送りになりました。サムエルがエッサイに会い、彼の息子たちにも会った時、彼はエッサイの長男であるエリアブを見て、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ。」と思いました。おそらくエリアブは王になれるほどの容姿を持っていたのでしょう。ところが、その時、神はこう言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)エッサイには8人の息子がいましたが、エリアブを含む7人の息子たちは、みな候補から外れることになりました。かえって神は、エッサイが呼びもしなかった素朴な羊飼いの末っ子ダビデをお選びになり、満足され、彼を王に立ててくださいました。サムエルも含め人々は人の外見だけを見ました。しかし、神は人の心をご覧になり、王を立てられたのです。サムエルとエッサイの頭の中には、「王と言えば、こうあるべきだ。」という過去から作られてきた認識があったのでしょう。しかし、神は人々の持つ、そのような固定観念を超越し、真に王とするに値する存在を見つけ出されたのです。これは人間の間違った認識が神によって拒まれたということでしょう 旧約本文7節で「目に映ること」とはアインというヘブライ語を翻訳した表現です。これは「自分が好きなものだけを見る。」という意味で、創世記ではエヴァが知識の木の実を見た時に使われた言葉です。エヴァの目に、その木の実はとても見栄えの良いものでした。しかし、神の御目にその木は、人間に死をもたらすものでした。サムエルの目に、エレアブは非常に立派に見えました。しかし、神様が知識の木の実の本質を知っておられたように、エリアブは本質的に神の御心に適わない者でした。「長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心は私が知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」(サムエル上17:28)末っ子という自分の固定した認識により、ダビデをお遣わしになった神の御心に気づくことが出来なかったことから、彼が王になれなかった理由が分かります。神は本質をご覧になる方です。人間の本質である心をご覧になる方なのです。まだ、若くて未成熟なダビデでしたが、彼の心の本質は、神への純粋な信仰に満ちていました。その本質を見抜かれた神がダビデをお選びになり、彼にイスラエル王国をお預けになったのです。「私は人間が見るようには見ない。」神の御心と人間の思いは違います。しかし、人間は自分が、すでに認識したものだけを選ぼうとします。しかし、それはいつも神の御心と相反する可能性を持っています。そして、その人間の認識は、神への信仰を妨げる要素になりがちです。 3.信仰―自分が持っている認識を飛び越えること。 大信仰問答を始めた時、私たちは神認識という言葉を学びました。それは「人間は神をどう認識するのか?」という質問から始まるものでした。ある人は路傍の地蔵尊を神だと認識したり、ある人は神社の巨木を神だと認識したり、ある人はお寺の仏像を神だと認識したり、またある人は一介の人間を神だと認識したりします。いくら、彼らに聖書の御言葉を見せながら、真の神はイエス·キリストの父なる神だと言っても、そう簡単には信じられません。なぜならば、すでに彼らには、歪んだ神認識が備わっているからです。だから、伝道が難しいわけです。この前の説教でイエスを悪魔ベルゼブルの手下だと中傷した律法学者たちも、結局は自分の認識に捉われ、イエスの存在を押し曲げたのです。また、イエスに「気が変になっている。」と乱暴に言ってしまった何人かのユダヤ人も、自分の認識に捉われ、イエスを信じられなかったのです。そしてイエスの身内の人々さえも、イエスの存在を正しく認識できず、自分たちの経験と考えに閉じ籠ってイエスのことを誤解したのです。 このように人間の認識は、人が信仰によって生きるのに大きな障害になるものです。 「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」(32)今日イエスを取り押さえに来た家族は、その歪んだ認識による不信仰のため、イエスを一介の人間、自分の子供、兄弟、親戚にしか考えられませんでした。「まさか、彼がメシアであるはずがないだろう?」これがイエスの家族の認識だったのです。その時、イエスは人がどんな認識を持って生きるべきなのか教えてくださいます。「イエスは、私の母、私の兄弟とはだれかと答え、周りに座っている人々を見回して言われた。見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(33-35)主はただの同じ血統、家柄、出身がイエスの家族の印ではなく、到底信じられない状況であっても、イエスの本質を受け入れる者たち、自分の認識を飛び越えてキリストによる新しい認識を受け入れる者たち、すなわち神の御心を行う人たちをイエスの家族と呼んでくださったのです。ここで私たちは真の信仰とは、自分が持っている認識の範囲の中でのみ信じるのではなく、自分が持っているすべての認識と思想を超越し、神がお望みになるものを受け入れ、信じる時にはじめて、生まれるものであることが分かります。信仰を持っている私たちは、今日、自分が持っているすべての自己中心的な考え方を神に捧げ、ひとえに神の御言葉が示すことを受け入れようとする生き方を持つべきでしょう。自分が認識している範囲の中だけで信じることは、自分の認識によって歪められ、結局は変質してしまうものだからです。 締め括り。 「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:7-9) 当時のユダヤ最高の学者、ガマリエルの弟子として、ファリサイ派の次期指導者として適任者だった使徒パウロは、キリスト者を迫害するために、勢いよく振舞っている途中、主なるキリストに出会い、キリスト者となりました。彼はローマ市民権を持ち、前途有望なファリサイ派の人でした。しかし、イエスに出会ってからの彼は、自分が持っていた、すべての認識と思想を残さず捨てました。そして彼は、真の霊的真実、つまり真理であるイエスの福音を追い求め、殉教してこの世を去りました。しかし、彼は偉大な使徒として、2000年が経った今でも我々に福音の教えを宣べ伝えています。真実を見抜くためには、自分の知識と認識を捨てなければならない時もあります。自分が持っているものが、全てではないということを認めなければならない時もあるものです。自分の考えを抑え、聖書が教えてくれる神の御言葉で自分の認識を満たしていく時、私たちは真実を見抜く目を得られるでしょう。今まで、一生、自分が正しいと思ってきた全ての物事には、いつでも移り変わる恐れがあります。変わることなく永遠なものは、唯一の神と、その御言葉だけであるということを覚え、自分のことを弁え、へりくだって生きる志免教会になることを願います。

ソドムが滅ぼされた理由。

創世記19章1-11節(旧25頁)ユダの手紙1章7節(新450頁) 前置き 私たちは、なぜ神様を信じるのでしょうか? 教会に行けば心の平和を得るから、聖書の御言葉を聞けば慰められるから、祈れば不安が消えるから、イエスを信じれば天国に行くと言われるからなど、数多くの信仰の理由があるでしょう。しかし、平和、慰め、安定、天国は信仰の目標ではなく、信仰がもたらす賜物に過ぎないというのが聖書の主な教えです。私たちに信仰が与えられた理由は、神と共に生きる人生そのもののためです。私たちを造られ、救われ、導かれる三位一体なる神と共に生きさせるため、私たちに信仰が与えられ、その人生の結果として私たちに平和、慰め、安定、天国が与えられるということです。ですから、信仰が持つ真の意味は「キリストを通じて神様を信じ、神と共に生きる人生」と言えるでしょう。それでは、果たして神と共に生きる人生とは、どんな人生なのでしょうか? マタイによる福音書22章37-40節では、そのような生き方を神と隣人を愛する人生だと教えています。神を信じ、一緒に生きる人なら、神と隣人への愛を実践して生きるべきであるということです。結論から申し上げますと、今日本文のソドムと周辺地域が滅ぼされた理由は、まさに、この神への愛、隣人への愛、つまり愛の無い社会だったからです。ソドムの人たちは、どのように生きていたので、神に裁かれ、滅ぼされたのでしょうか? 本文を通して確認してみましょう。 1.なぜ、神はお裁きになるのか? この前、説教で私はこんなことを言ったことがあります。「神の御愛と御裁きはコインの両面のようなものです。」神は、この世を愛する方であり、ヨハネ第一の手紙には 「神は愛だからです。」という語句もあるほど、愛は神の代表的なイメージです。しかし、神の愛は公明正大で、正義に満ちた愛です。すべての存在を愛するという言い訳で、何の関心もなく、世の中を無秩序に放っておいたら、それは愛ではなく、むしろ無関心になるでしょう。ですから、神は神の御心に逆らう物事には裁きを下される方なのです。裁きを通して、この世の秩序を守ってくださり、世への真の愛を示してくださるわけです。しかし、明らかなことは、神は、ただ滅ぼすために裁かれる方ではなく、すべての存在が救われることを望んでおられる方だということです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテⅠ2:4)前回の旧約本文と今回の本文の間には、神とアブラハムとの会話があります。本文が長過ぎになると思い、やむなく省略したのですが、その内容は皆さんがよくご存知だと思います。「もし、ソドムに10人の正しい者がいるなら、その十人のために私は滅ぼさない。」という内容です。(創世記18:16-33) その言葉の中には、こういう語句もありました。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びの通りかどうか見て確かめよう。」(創世記18:20-21)もし、神が無慈悲な裁きだけを望んでいる存在だったら、神はあえてソドムの行跡をご自分で確かめるために御使いを遣わされなかったでしょう。すでにご存知のことをお確かめになる必要がないからです。しかし、神は御使いたちを遣わされ、ソドム地域の人々に本当に重い罪があるかどうか、自ら確かめようとされました。彼らに小さなことでも正しい姿があれば、赦してくださるお気持ちを持っておられたからでしょう。ソドムに御使いたちをお送りになる神にアブラハムは、「もし、あの町に正しい者が何人かいたら。」と仮定して、しつこく神の憐みを求めました。 なぜならば、ソドムには甥ロトも住んでいたからです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」(創18:23)アブラハムは、たとえロトと財産の葛藤で別れたといっても、ロトが信仰者であり、正しい者だと思っていました。だから、アブラハムは甥のために、神にしつこく訴えたわけです。これは即ちアブラハムの執り成しの祈りでした。自分の必要だけのための祈りではなく、自分を捨て去った甥のための愛の祈りだったのです。そこで、神はその祈りをお聞きになり、10人でも正しい者がいるなら滅ぼさないと約束され、アブラハムの祈りを受け入れてくださいました。 2.「ソドムの人々の罪」 夕方に神の御使いたちは、ソドムの門のところに到着しました。その時アブラハムの甥ロトは、神からの二人の御使いを見て迎えました。 「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏した。」(創世記19:1)ロトは叔父のアブラハムのように、神の御使いに会うやいなや、歓待して自分の家に招き、叔父のように手厚く持て成しました。これによって私たちは、ロトもアブラハムのように寄留者を歓待する信仰者であることが分かります。また、ロトが座っていた門という場所からも、ロトの性格を推し測ってみることが出来ます。 旧約時代の城門は、地域の指導者が民衆の気の毒な事情を聞き、判決を下した場所でした。おそらく、ロトは正当な裁判にも目を注ぎ、社会的な正義を守ろうと努める人だったわけでしょう。たとえ過去に財産による葛藤でアブラハムと別れたロトだといっても、彼は基本的に神の御言葉を大切にし、正しく生きようとする人だったと思われます。しかし、後に出てくるロトの行為の故に、彼にも信仰の欠点があったことが分かります。それを知るためには、まず、ソドムの人たちの罪から探ってみる必要があります。そのソドムの人々の罪による出来事を通じて現れるロトの姿から、私たちはロトの過ちを見つけることが出来るからです。 それでは、ソドムの人々の罪は何だったでしょうか。18章20節には「訴える叫び」という表現があります。これは「暴力を告発する訴え、大号泣、苦しみによる叫び」を意味するもので、他人によって苦しめられる人間の苦しみと悲しみを意味する言葉です。神がソドムを裁こうとなさった理由は、ソドムによってソドム周辺の人々、より正確には弱い者たちが受ける苦難を見付けられたからです。今日の本文では、そうしたソドムの罪を、ある出来事を通して詳しく見せています。「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(4-5)夜になって御使いたちが休もうとする時、ロトの家の外では大騒ぎが起こりました。それはソドムの人々が御使いたちに会いに来たことでした。 ここで私たちは、「なぶりものにする。」という表現を注意深く見守るべきだと思います。それは暴力的に性的関係を持つという意味です。この表現は、男性が男性と性的関係を持つというニュアンスがあるため、時々同性愛を意味すると解釈する場合もありますが、この表現には、より深い意味が含まれています。それは自分たちの力を見せ付け、弱い者たちを暴力的に屈服させるという意味です。 私は、前の創世記の説教で、古代中東社会での歓待は一つの特定の社会の中でのみ、通じるものだったとお話ししました。たとえば、「ある種族同士は互いに親切にしても、その種族以外の人には親切にする必要がない。」という、社会的なルールがあったわけです。アブラハムの時代にはしばしば同性、異性を問わず、自分より弱い人に、性暴力を犯すことで自分が優位にあることを示そうとする悪習がありました。つまり、ソドムの人々の罪は、単なる性犯罪のレベルを超える、寄留者を押さえつけ、弱い者を苦しめる、歓待しない生き方にありました。ところで、このような姿はロトにも見えたのです。最初は罪に満ちたソドムの中でも、ロトは正しい者の姿を保っている様でした。ですが、ロトの一言によってロトもソドムの罪に染まっていることが分かります。 「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私には、まだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(倉19:7-8)一見、ロトは神の御使いを守ろうとする正しい心を持っているように見えました。しかし、ロトは神の御使いを守る代わりに、自分の娘たちを暴力の生け贄にしようとしました。結局、ロトも社会的な弱者である女性を簡単に暴力の被害者に追い込んでしまいました。残念なことにソドムに住んでいたロトさえも、不義に満ちたソドムの文化に染まってしまったというわけでした。 3.正しい10人の不在のため、滅ぼされるソドム。 結局、最後の希望だったロトさえ、正しくないと判定されました。 「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」(9)ソドムの人たちも、ロトも、結局は弱い者の世話をし、善を行う姿から遠ざかり、寄留者を抑圧し、弱い者を軽んじる罪を現わしてしまいました。しかも、ソドムの人々はロトをも攻撃しようとしました。実に阿鼻叫喚の様でした。彼らには、愛も、正義も、歓待もありませんでした。ただ、彼らは他人を抑えつけ、自分の欲望だけを追い求め、身勝手に悪を行う罪悪そのものの存在になっているのでした。こういうわけで、ソドムに赦しの機会を与えるために派遣された神の御使いたちは、ソドムを無惨に裁く審判官になってしまいました。神の御使いたちは、まるで、ソドムの人たちの霊的な状態を意味するかのように、彼らの目を潰し、その場から退けようとしました。以後、ソドムは神の激しい裁きにより、滅びてしまいます。神は華やかな供え物や多くの財物を願う方ではありません。神は神を愛し、隣人を愛する素朴だが正しい者の生き方から喜びをお求めになる方なのです。しかし、ソドムの人々は、そのような素朴で正しい人生より、自分の強さと力を誇り、隣人を貶め、結局、神まで蔑む人生を生きました。ソドムには、神の御心に適う10人がいなかったので、ついに滅ぼされてしまったのです。 締め括り 今日の新約本文にはソドムの罪に関する言及が記されています。「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」(6-7)ユダヤ人たちの伝説によると、ある天使たちが神の王座を狙ったところ、永遠の鎖に縛られ、裁かれたと言われます。ソドムの人々は、その堕落した天使たちに似ていました。彼らには、神への愛や隣人への愛なんて、重要ではありませんでした。過去の堕落した天使たちのように、ただ自分が高くなることだけを願っていたのです。他人を配慮せず、自分だけが高められる人生、一時は賢い生き方に見えるかもしれません。 世の中の政治家や金持ちの中に、このように弱者を配慮しない人は結構多いです。しかし、私たちははっきり知っておくべきです。私たちの社会が弱者を大切にしなければ、結局、神に裁かれ、滅ぼされるでしょう。ソドムの物語は、現代でも同様に適用される見せしめです。弱者を苦しめ、強者だけを高める社会は結局滅びるでしょう。私たちの教会は、このような社会において、どのように生きていくべきでしょうか。私たちはこの地域の正しい人10人として生きているでしょうか。神は隣人愛を通して、神への愛を確かめられる方です。神を本当に愛するなら、自分のことを弁え、隣人を尊重し、主が望んでおられる正しい生き方を実践しつつ生きるべきでしょう。

神を冒涜する罪

レビ記24章10-16節(旧201頁) マルコによる福音書3章20-30節(新66頁) 前置き 14世紀から15世紀にかけて、ヨーロッパには100年戦争という、イギリスとフランスとの大きい戦争がありました。その戦争でフランスを救った有名な英雄の中には、私たちがよく知っているジャンヌ・ダルクという女性もいました。しかし彼女は、自分の祖国を救ったにもかかわらず、神聖冒涜という濡れ衣を着せられ、火あぶり刑に処せられました。彼女の罪名は「邪悪な魔女であり、悪魔の声を聞き、王権と教会権を乱す神聖冒涜者」でした。しかし実は、当時フランスの政界と宗教界は彼女を利用して、必要がなくなると自分たちの利益のための生け贄として殺したというわけでした。無実の罪で殺された彼女は1920年に初めて、カトリック教会の聖人と認められ、晴れて無罪の身となりました。残念なのは、歴史上、ジャンヌ・ダルクのように、政治家や宗教家の利益のために、無実にもかかわらず神聖冒涜の罪で処刑されたケースが多かったということです。このように神聖冒涜は特定の集団の利益のために間違って用いられることが非常に多かったのです。人間の罪の性質は、神の神聖ささえも神の栄光ではなく、自分たちの必要のための道具として用いたのです。それでは聖書は、この神聖冒涜について、どのように語っているのでしょうか。果たして真の神聖冒涜とは何でしょうか。今日の新約の本文を通して、聖書が語る真の神聖冒涜について、考えてみましょう。 1.旧約に現われる神聖冒涜の事件。 400年間、エジプトの奴隷であったイスラエルは、神によって救われ、ついにエジプトの奴隷生活から逃れることができました。神は彼らを解放され、シナイ山に導いてくださいました。また、彼らに神の律法である「十戒」を与えられ、神と世を執り成す聖なる国民として打ち立ててくださいました。そういうわけで、イスラエルは自分たちの欲望と利益のために生きる存在ではなく、神の栄光のために生きる聖別された存在としての特権と義務を持つ、神の所有として生まれ変わりました。ここで特別なことは、神様がアブラハムの血統ではなく、神様への信仰を通してイスラエルを選び出してくださったということでした。「イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。」(10)神のお導きにつき従ってエジプトを立ち去った人々の中には、純血のアブラハムの子孫でない人たちもいましたが、その中にエジプト人の父を持つハーフもいたのです。 つまり、神はイスラエルという共同体を民族ではなく、神への信仰の有無で、ご規定なさったということです。 この点を通して、私たちは神が血統ではなく信仰をお測りになり、ご自分の民をお呼びになる方であることが分かります。相手が誰でも神を信じる存在なら、神の御目にはイスラエルであるということでしょう。ところで、ある日、エジプト人の父を持つある男が大きな過ちを犯してしまいました。それは神の御名を冒涜したことでした。「イスラエル人を母に持つこの男が主の御名を口にして冒瀆した。人々は彼をモーセのところに連行した。」(11)父がエジプト人であるにもかかわらず、イスラエルの一員として認められ、神の律法まで受けた彼でしたが、彼は十戒の第三の戒を破って神の御名を口にして冒涜したわけです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト20:7)もちろん、第3の戒に記してある「主の御名をみだりに唱える。」という言葉と、今日の本文の「主の御名を口にして冒涜する。」という言葉の原文は異なる単語でしょうが、広い意味としては第3の戒めに含まれることで、神の存在を否定し、その御心に逆らうことを意味します。結局、彼は神様に呪われ、石で打ち殺されました。このように、旧約時代には、すでに神の民に選ばれた存在さえも、神を冒涜すれば、赦されることが出来ない厳重な時代だったのです。 2.神聖を冒涜した律法学者たち。 ところで、今日の新約本文にも、このように神聖を冒涜する場面が見られます。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、あの男はベルゼブルに取りつかれていると言い、また、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると言っていた。」(22)まさにイスラエルの宗教指導者である律法学者たちが、貧しい民の面倒を見ておられるイエスを悪霊の手下と貶める出来事でした。律法学者たちは旧約聖書を研究し、民に聖書の御言葉を教える先生たちでしたが、聖書の知識とは別に、神様から遣わされたイエスの正体を全く見抜くことができず、イエスを中傷し、むしろ主の御業を否定して、呪いをかけていたのです。律法で常に大事にされている隣人への愛と神への愛を行っておられるイエスの御業を見ても、彼らは自分たちの既得権だけに目が眩み、律法を守りつつ働いておられたイエスを、ベルゼブルという悪魔の手下と貶めたわけです。イエス・キリストは、罪によって神から遠ざかっている罪人たちに悔い改めを促し、その悔い改めを通して神様と和解させてくださるために来られた救い主です。イエスが貧しい民を癒し、御言葉を教え、福音の宣教をしてくださった理由は、罪人を救おうとする神の御意志を成し遂げるためでした。つまり、イエスの御業が、すなわち神の御業だったということです。なのに、イスラエルの律法学者たちは、むしろイエスの御業を悪魔の仕業と扱き下ろすことで、律法で禁じられている神への神聖冒涜を犯してしまったのです。 ここでちょっと、今日の新約本文に登場するベルゼブルとは、どんな存在なのでしょうか? ベルゼブルとは、古代のカナンで崇拝されていた男神であるバアルに由来します。バアルは「支配者、主、王」という意味ですが、長い間カナンの最高の神とされていました。その後、バアルという名称は「高い所の主」という意味の「ベルゼブル」に変わっていたのです。おそらく古代のカナンの人々が雨と雷の神であったバアルを高い所に住む神と信じ、「高い所の主」と呼ぶようになったでしょう。ところで、ユダヤ人は、このベルゼブルをベエルゼブブと変えて呼んだそうです。「ベエルゼブブ」は、ベルゼブルに似た発音ですが、その意味は全く違うものでした。ハエの王をという意味を持っているからです。おそらく、イスラエルの神を真の神だと信じていたユダヤ人が、異教徒の神であったベルゼブルをからかい、「つまらないハエの王」と呼んだことに由来したと思います。しかし、ハエの王という滑稽なあだ名とは別に、ユダヤ人にとってベルゼブルは、あらゆる悪霊を支配する強力な悪魔であり、神の正反対にある邪悪な存在とされていました。このようにイスラエルの神から遣わされたイエスをベルゼブルの手下と考えたというのは、神様の御業を悪魔の仕業と見なしていたことに等しい深刻な問題でした。それだけに、当時のイスラエルの宗教指導者たちは、神の御業と悪魔の仕業も、見分けがつかないほど、霊的に堕落していたのでした。その堕落は、知らないいちに神聖冒涜の罪をもたらしました。 3.神聖冒涜にもかかわらず。 しかし、今日の旧約本文とは異なり、律法学者たちは何の呪いも受けていませんでした。「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。どうして、サタンがサタンを追い出せよう。サタンが内輪揉めして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」(23、26)むしろ、イエスは律法学者たちに、悪魔が悪魔を追い出すことはなく、そうすれば、むしろ悪魔の力が弱まるだけだと教えてくださいました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27)また、イエスは、ご自身がそのベルゼブルのような悪魔たちを縛り上げられる強い方であることを比喩を用いて、教えてくださいました。つまり、イエスは悪魔ではなく、むしろ悪魔を裁く全能者であることを教えてくださったのです。 そして、イエスはご自分のことを貶めるのが、いかに深刻な神聖冒涜なのか、教えてくださいました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)聖霊は人々に、イエスの救いと愛を信じさせてくださる存在です。しかし、律法学者たちは自分たちの罪によって、イエスを信じることができず、むしろ呪いをかけてしまいました。それは聖霊の御業を妨げる神聖冒涜にあたる罪でした。しかし、主は彼らを呪われ、罰されるより、彼らを赦してくださることを望んでおられました。 律法学者たちが神聖を冒涜する罪を犯しましたが、新約本文と旧約本文の間には大きな違いがありました。旧約本文にも新約本文にも神聖冒涜が見つかりますが、旧約のエジプト人の息子は殺され、新約の律法学者たちは生き残りました。それは、なぜでしょうか?  それはイエスの存在によってでした。イエスは呪い、殺すために来られた方ではありません。むしろ救い、生かすために来られた方なのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)今日のこの言葉は、主が律法学者たちに呪いをかけられるように見えますが、この言葉には、もっと深い意味があります。すでに28節で、どんな罪や冒涜の言葉が赦されると言われた主が、29節では、赦せない罪もあると仰るのにはぶつかり合いがあるからです。したがって、29節の言葉は、罪の根本的な原因を赦さないという意味として受け止めるべきだと思います。なので、私は28、29節の言葉を、このようにも読めると思います。「律法学者たちよ、お前たちの罪と冒涜は赦される。しかし、君らを罪に導き、イエスを信じられないようにする悪霊、すなわち聖霊を冒涜する存在たちは必ず裁きを受ける。」 つまり、イエスはご自分を呪い、冒涜した律法学者たちの罪までも赦してくださったということです。そして、その裏面にある、より根本的な悪への裁きをお告げになったのです。これがイエスの存在理由です。罪人を赦され、罪の源をお裁きになることです。 締め括り 新約聖書が語る神聖冒涜とは、「イエスを信じず、拒否すること」です。そういう意味として、我々が生きているこの世は、神聖を冒涜する世界です。日増しにイエスを信じるのが難しい世の中になりつつあります。会社では日曜日に仕事をさせ、学校では日曜日に部活などをさせます。世の中の文化はキリスト教の信仰をつまらないものだと言い募ります。世の風潮は霊的な関心より、肉的な関心により集中させています。結局、イエスを信じにくくしているのです。このような神聖冒涜の世の中で、神はそれでも変わることなくイエスを信じる者を探しておられます。終わりの日、イエス・キリストは、必ずこの神聖を冒涜する世を裁かれるでしょう。そして、この堕落した世界の支配者である悪魔たちをお裁きになるでしょう。また、イエスのもとへ進み、信じ、聞き従う者たちを救われ、報いてくださるでしょう。このような世の中で、我々はどのように生きていくべきでしょうか? ご自分のことを呪い、冒涜した律法学者たちさえ、お赦しくださったイエスを仰ぎ見、より一層、キリストへの堅い信仰を持って生きることを願います。また、本文の律法学者たちのような、世の人々を悔い改めへと導く私たちになることを願います。神聖冒涜の世の中で神聖を尊重し、イエスへの信仰を貫いていく志免教会になることを願います。

啓示をくだされる神さま。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁) マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 前回の創世記の説教では、寄留者を歓待したアブラハムの物語を通じて、聖書が語る「寄留者への持て成し」の真の意味について話してみました。聖書によると、神は時々寄留者の姿で、我々の前に現れる方であり、その寄留者を通じて、我々に御言葉をくださる方でいらっしゃいました。前回の説教では、その寄留者という存在が、私たちの周りの弱い者や私たちの最も嫌な人である場合もあると話しました。新約聖書マタイによる福音書25章でイエス様は、このように仰せになりました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」私たちが本当に主を愛し、信じる人なら、私たちは、どのような姿で現れるか分からない主への歓待のために常に備えて生きなければなりません。そして、その備えとは、私たちの隣人に対する愛と嫌な人への赦しから、初めて証明されるものです。正しい人アブラハムが前回の本文を通じて見せた寄留者への歓待は、まさにこのような成熟した信仰を表すものです。自分より他人を優れた者とする信仰、他人を赦し、愛する信仰、そういう寄留者を歓待する成熟した信仰を通して、神はアブラハムを祝福してくださったように、ご自分の民を祝福してくださるでしょう。 1. 祝福の啓示をくだされる神様。 アブラハムが招いた寄留者たち、すなわち神の御使いたちは、アブラハムの持て成しを受けて、ソドムに足を運ぼうとしました。その時、神は御使いたちの口を通じて、アブラハムに言われました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(17-18)前回の説教で私は、「旧約聖書に登場する神の御使いたちは、神に全権を委ねられた、神に代わる存在である。」とお話ししました。彼らが天使だったのか、人だったのか、聖書からははっきり分かりませんが、神が彼らに主の御言葉による権威をお委ねになったのは明らかです。彼らがアブラハムに言い伝えた言葉は、「アブラハムは神の特別な人だから、神は隠すことなく仰せになる。」ということでした。 この言葉の神学的な意味は神がアブラハムに啓示してくださるということです。「いと高き神が人が理解できる方法で御言葉をくださること」を神学用語で「啓示」と言います。神の御言葉は人間が自力で理解することが出来ない高次元的なものです。しかし、神は神に選ばれた者たちが聞き取れる形で御言葉を与えてくださいますが、それがまさに啓示なのです。つまり、神は寄留者たちの口を通じて、アブラハムだけが聞くことができる大事な啓示を与えてくださったということです。 その啓示の内容は二つでした。 一つは祝福の啓示であり、もう一つは裁きの啓示でした。特に祝福の啓示はアブラハムと、その子孫への祝福についてのものでした。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(18-19)かつて、アブラハムをご自分の民としてお呼びくださり、契約を結んでくださった神様でしたが、その後24年の間、神様は、時にはまるで答えてくださらない方であるかのように、時には存在しておられない方であるかのように、ご自分のことを隠され、アブラハムの信仰をお試みになりました。しかし、その御試みはアブラハムを苦しめるための試練ではありませんでした。それはアブラハムの信仰を鍛え、成長させる神の愛でした。神様は「主の道を守り、主に従って正義を行うよう」彼をお選びになり、成長させられたのです。その信仰の試練を乗り切ったアブラハムは、寄留者への歓待を通じて、自分の成長した信仰を、確実に神様にお示しすることが出来たのです。その結果、神は信仰的に成長したアブラハムに、アブラハムと子孫が強い国民となり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入るだろうと祝福の啓示を与えてくださったわけです。 確かに神様は、ご自分の民を愛してくださる方です。しかし、神様はその民を甘やかす方ではありません。愛しておられるから、試練をくださるのです。「可愛い子には旅をさせよ。」という諺があるように、神はアブラハムを愛しておられるから、お試みになり、試練をお許しになったわけです。そして、その試練の結果は祝福の啓示とともに、実際にその啓示が代々続き、成し遂げられることでした。アブラハムの息子イサク、孫ヤコブ、その息子エジプトの総理ヨセフ、モーセ、ダビデ、そしてイエス·キリストに至るまで、神の啓示は代々成し遂げられていきました。実際、ヨセフ、モーセ、ダビデは民を泥沼から救い出し、主イエスは完全な御救いを成し遂げられる救い主でした。そして、アブラハムにくださった、その啓示のように、アブラハムの霊的な子孫である主の教会は、神の御言葉と約束、すなわち「主の道を守り、主に従って正義を行うキリスト」の御言葉の上に立ち、今でも受け継がれているのです。 2.裁きの啓示をくだされる神様。 ところで、神は裁きの啓示もくださいました。それは罪に満ちたソドムに対する恐ろしい審判の予告でした。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」(20-21)神様はアブラハムに祝福の啓示を与えてくださったとは反対に、ソドムの人々のことに対しては残酷な裁きの啓示を下されました。なぜ、神様はアブラハムへの祝福の啓示をくだされるや否や、裁きの啓示をくだされたのでしょうか? それは神への信仰を持って生きていたアブラハムと、神に逆らう人生を生きていたソドムの人々を明らかに対比するためでした。次の説教ではソドムとゴモラについて、もっと詳細に分かち合う予定ですが、そこの人たちは深刻な罪人たちでした。「ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(19:4-5)、彼らはアブラハムを離れてソドムに着いた神からの寄留者たちを歓待せず、乱暴に扱おうとしました。彼らが、どのような乱暴なことを犯したのかは、次の説教で詳しくお話ししましょう。明らかなのは、彼らの行為がアブラハムとは正反対の、寄留者への脅威だったということでした。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(19)先に神は、この言葉を通じて、なぜアブラハムをお呼びになり、試練を通して成長させ、神の祝福の民にしてくださったのかを教えてくださいました。それはアブラハムを「主に従って正義を行う」人にしてくださるためでした。それが神の民が持つべき在り方だったからです。ここで言う「主に従う。」という表現はヘブライ語で「チェダカ」と言いすが、「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」という意味だそうです。また「正義を行う。」という言葉は、ヘブライ語で「ミシュパート」と言いますが、「神の民として守るべき律法的な正しさ。」という意味だそうです。神様はアブラハムと、その子孫を「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」と「神の民として守るべき律法的な正しさ。」を守りつつ生きる、真の正しい人にさせるためにアブラハムをお選びになり、試練を与えられ、養ってくださったのです。そして、そのような生き方の最も基本的な姿勢は、隣人への接し方に現れるのです。ところが、ソドムの人たちには、そうしたチェダカとミシュパートが欠けている状態でした。彼らは自分たちの力を信じ、余所者を蔑んで、生きていたわけです。つまり、彼らには神様に認められるべき、正しさがなかったということです。 神様が御使いたちを遣わして、ソドムを滅亡させようとなさった理由は、このような彼らの悪をお裁きになるためでした。ところで、問題はアブラハムの甥ロトが、そこに住んでいるということでした。確かに啓示される神様は、ご自分の民に祝福の言葉をくださる方です。しかし、神は罪に満ちて悔い改めずに生きる人々へ裁きと呪いの言葉をもくださる方です。そして、その呪いと裁きの啓示は、世の中に生きている主の民、つまり教会を通じてくださるのです。神はアブラハムにソドムへの裁きの啓示をくださることで、ソドムに住んでいる甥ロトのために祈らせてくださいました。そのため、アブラハムは22-33節に出てくる繰り返される懇請で、神様がソドムを許してくださることを願ったのです。神様がこの日本に主の教会を立ててくださった理由も、それと同じです。日本の民族が正義ではなく悪を行なって生きていけば、神は必ずこの国をお裁きになるでしょう。このお裁きからは米国も、中国も、韓国も自由ではありません。終わりの日に、すべての存在が神に裁かれるのが決まっているからです。しかし、神は愛する日本の教会を通じて、日本の民族と社会に神の警告を伝えることを望んでおられます。日本キリスト大会が政府の政策に時々抗議状を送る理由も、そういう意味があるからです。それがまさに私たちが伝道をしなければならない大事な理由なのです。 締め括り 啓示に関する話は、今日の新約の本文からも見つかります。イエス様はしるしと奇跡を見ても悔い改めない、ガリラヤのいくつかの町を責められつつ、このように仰いました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)神は、いつも聖書を通して祝福と裁きの啓示をくださる方です。そして神に仕える、主の民は、その祝福と裁きの啓示を聞くことが出来る特権を持っています。聖書は神の愛と祝福だけを語ってはいません。神の裁きと呪いをも語っているのです。だから自分の好きな箇所だけを読んで、勝手に聖書を誤解してはいけません。神の祝福と裁きはコインの両面のように、いつも共存するものです。賢い親は、適切な褒め言葉と戒めを通して、子どもを育てます。そのように神も愛と裁きを通して、この世を治めておられるのです。主イエスは、このような神の啓示を我々に与えてくださり、祝福を極大化し、裁きを最小化してくださるために来られた方です。今日、アブラハムの物語を通じて、私たちは神の啓示について知ることが出来ました。私たちは、主に愛される民として、神の啓示が持つ二つの面を覚え、主の御言葉に従って生きるべきでしょう。神の啓示を大事にし、主に喜ばれる志免教会になることを願います。

主の弟子。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁)マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 去るマルコによる福音書の説教では、神の子について分かちあいました。イエス様の時代、神の子という表現が持っていた意味は、信仰や宗教に限った意味ではありませんでした。当時、神の子という表現はローマの皇帝を指していて、非常に政治的で社会的な意味を持つ言葉でした。これを通して、私たちは神の子と呼ばれたイエスが、ただ静的な信仰の領域にだけ限られた方ではなく、ローマ皇帝の権威を超越した、社会を変革し、世の中を変える実践的で動的な存在だったということが分かりました。私たちは神の子イエスを信じる存在です。これは、ただ私たちが、私たちの救い、平和だけに関心を持つのではなく、この世の政治的な理不尽や社会的な問題にも、もっと関心を持って、祈りと実践によって、生きていかなければならないという役割を持っているという意味です。イエス・キリストは21世紀にも、神の子としておられる方です。この主の民として召された私たちは、政治、社会、経済すべての領域において関心を持ち、正しく生きていくべき存在だということが前回の説教の筋書きでした。今日は、前回の説教に引き続き、この神の子イエスがお呼び出しになった弟子という存在について考えてみたいと思います。 1. 山-神がお働きを始められる場所。 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。」(マルコ3:13)聖書での山という表現には「未来への備え、神のご臨在、神の権能」などの意味があると言われます。聖書に登場するすべての山について、このように解釈することは無理でしょうが、特別な出来事があった山は、このように解釈する場合が多いです。我々は、このような意味を、本日の旧約聖書の本文を通して見ることができます。エジプト帝国の暴政によって、奴隷のように生きていたイスラエル民族は、神の強力な権能である10の災いによって、自由な存在となりました。しかし、この自由は、身勝手に生きてもいいという放縦の意味ではなく、神の民となるという責任と義務を求められる責任のある自由でした。このような真の自由を与えるために、神はイスラエルに旧約の律法をくださったのです。その時イスラエルの指導者モーセはシナイ山という神聖な場所で、この律法を受けたのです。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。」(出19:3) 神に律法を頂いたイスラエルは、単なる神の奴隷ではなく、身分の変化を受けたものでした。「もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出19:5-6)つまり、山で神に出会ったイスラエルは奴隷の民族から祭司の民族として、新しく立つことになったのです。 今日の新約の本文は、このようなシナイ山での出来事に非常に似ています。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:13-15)マルコによる福音書でのイエスは、1章と2章で何人かの弟子たちをお呼び出しになりましたが、彼らに宣教をさせたり、悪霊を追い出す権能を与えたりはしませんでした。癒しと宣教と教えとは、おもにイエスご自身が行われ、弟子たちは静かに、その後に従うイメージだったのです。しかし、主イエスは山に登って公に弟子たちを呼び寄せられ、また、彼らに権能を与えられて、イエスの御業に参加できる機会をくださったのです。マタイによる福音書にも弟子をお召しになる場面が登場しますが、その時、主はこのように言われます。「行って、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい。 病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:7-8)主は、今まで受動的なイメージだった弟子たちを能動的な存在と変えられ、主の力を分け与えてくださいました。 そして、ご自分が行なっていた御業である「癒し、教え、宣教」の権限を与えてくださったのです。シナイ山でイスラエルをお召しになった神が、奴隷だったイスラエルを祭司の王国、聖なる国民、すなわち礼拝者として新しく呼んでくださったように、イエスも山に登って主の人々を呼んでくださり、ご自分のように癒して、教えて、宣教する弟子として新しく立ててくださったわけです。 2.誰がイエスの弟子なのか? このようにシナイ山の神と、山の上のイエスは非常に似ています。旧約の神がイスラエルの民を通して新しい御業をご計画なさったように、新約のイエスもご自分の弟子たちを呼び寄せられ、旧約とは区別される新しい御業をご計画なさったのです。それでは、果たして、誰がイエスの弟子になれるのでしょうか? 今日の新約本文には、このような言葉があります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると」(13)主は、主がお望みになる者を呼び寄せられ、ご自分の弟子にされました。この世のすべての人が神の弟子になることができるわけではありません。主の弟子になるということは、主の呼びかけに応じた者にのみ可能なことです。イスラエル民族がシナイ山で、神の民に選ばれたことは、神が即興で行われたことではありませんでした。「お前ら、せっかく自由の身になったのだから私の民になれ。」との意味ではなかったということです。そのお選びは、既にイスラエルが打ち立てられる前の、先祖アブラハムと結んだ契約の結果であり、そのアブラハムとの契約ですら、アダムとエヴァとの堕落にまで遡る、初めからの神の徹底したご計画に基づくものなのです。このように、神様に選ばれ、召されるということは、神の計画の中にいる者だけが得られる特権なのです。聖書はこれを神の摂理であり、経綸であると語っています。 だからといって、主に呼び寄せられた者たちが、みんな服従したり、弟子になったりするわけでもありません。ただ神の呼びかけに従順に応える者だけが、召された者になるのであり、弟子になれるのです。今日の本文には「彼らはそばに集まって来た。」(ギリシャ語 デロ、応じる。)という言葉があるからです。神はわがままな暴君ではありません。神はいつも人間の自由な意志を尊重して、人をお召しになる方なのです。神の呼びかけに応じない者たちまで、強制的に呼び出される方ではありません。我々人間は神にとって、操り人形ではなく、人格を持っている被造物だからです。主は伝道者たちの伝道を通して、聖書の御言葉を通して、牧師の説教を通して、毎日毎日、常に呼び掛けていらっしゃる方です。その主の呼びかけを聞いた者が、それに従順に応える時にはじめて、神様のお招きは完成するのです。これは、人間の選択の問題ではなく、神への服従の問題でしょう。そして、そのように召され、聞き従う者こそが、イエスの弟子に選ばれるのです。だから主のお選びと呼びかけに応じ、聞き従って、この場に集っている私たちが、まさに主イエスの弟子なのです。新約聖書の使徒だけが弟子ではなく、教会の牧師だけが弟子ではなく、長老や執事だけが弟子ではなく、主の御言葉を聞き、答え、主の御前に出てきた、すべての人々が、まさにイエス•キリストの弟子なのです。 3.今日も私たちを弟子として呼んでおられる主。 「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:14-15)主は12人の弟子を召され、彼らをご自分のそばに置いてくださいました。主が弟子をお呼びになった理由は、奴隷のように仕事ばかりさせるためではありません。主が彼らと同道し、愛してくださるためです。弟子として呼ばれた我々は今、我々の主でいらっしゃるイエスと共に生きています。決して私たちは独りではなく、私たちのすべてを守り、助けてくださる主と共にいるのです。また、主が弟子をお呼びになった理由は、宣教をさせるためです。ここで言う宣教とは、人を連れて来て礼拝の場に座らせるということだけを意味することではありません。もちろん、そのような行為も宣教でしょうが、ここでいう宣教とは、もっと根本的な意味、つまりイエスが救い主であること、神が真のお独りの神であることを、私たちの生活を通して伝えることなのです。我々がキリスト者であることを明らかにし、我々の生涯の中で、キリストの弟子として隣人に感動を与えることも宣教なのです。最後に、主が弟子をお呼びになった理由は、弟子たちを通して悪霊を追い出すためです。これは実際に悪霊を追い払うという意味もあるでしょうが、悪霊と表現される、この世の理不尽と悪の中で正義を追い求め、そのような正しい生き方を貫くという意味にも解釈できるでしょう。 このように、主は「主と同道する弟子」「キリストの救いと愛を宣べ伝える弟子」「世の悪や不条理に対抗する弟子」を立ち上がらせるために弟子をお呼び寄せになるのです。そして、歴史的にその弟子たちは、キリスト者と呼ばれてきました。聖書に12人の使徒たちという表現があるからといって、弟子が特別な人だと思ってはなりません。 12という数字は聖書の完全数として「全て」という意味をも持っているからです。したがって、今日、主を信じて教会を成す私たちは皆、主に愛される弟子です。皆さんと私が即ちイエスの弟子でなのです。だから、弟子という言葉に特別な意味をつけたり、私たちとは別の偉い人、牧師や伝道師のような神学を専攻した人などと考えたりしてはならないでしょう。最後に今日の言葉で、主イエスはおもにギリシャ語の現在形の動詞を使っておられます。弟子たちが主と一緒にいること、主に遣わされること、主に宣教させられること、悪霊を追い出すこと、すべてが現在形です。ギリシャ語で現在形が持つ文法的意味は、その文章を読む現在の読み手にも同じく有効であるということです。つまり、我々が今日の本文を読んでいる、ただいまの時点でも、主は弟子を呼ばれ、我々と一緒におられ、宣教させられ、この世を変えておられるということです。皆さん、忘れないようにしましょう。私たちは主の弟子です。そして我々の主イエス·キリストは今日も変わることなく、私たちに弟子としての生活を促していらっしゃいます。 締め括り 今日は3時から牧師就職式が持たれます。今日の就職式の式文には牧師の誓約と教会員の誓約が出て来ます。ところで、教会員の誓約が牧師の誓約より約2倍ほど長いです。そこで私はこれはただの牧師だけの就職式ではなく、牧師と教会員が一緒に就職する就職式ではないかと思いました。今日、主はこの志免教会という小さな山に私たちをお招きくださり、主の弟子としてお召しくださるでしょう。主が志免教会の教会員たちと牧師がイエスの共同体となり、主と共に歩んで福音を宣教し、正義を追い求めて生きることを望んでおられます。今日の御言葉を通じて、志免教会のみんなが、主イエスの弟子であることを、もう一度、心に留めていくことを願います。私たち志免教会を通じて神様が志免町に祝福を、私たちを通じて癒し、教え、宣教してくださることを願います。主の弟子である志免教会に神の大きな恵みが共にあることを信じます。

寄留者への歓待。

創世記18章1-15節(旧23頁) マタイによる福音書25章31-46節(新50頁) 前置き 神の民として選ばれ、生まれ故郷、父の家を離れたアブラハムは、24年という長年を寄留者(旅人)として暮らさなければなりませんでした。しかし、土地と子孫を与えるという神の約束は、24年経っても果たされず、土地と子孫を得るためのアブラハムなりの努力も、何も成し遂げられず、無駄になってしまいました。75歳に神に召されたアブラハムは、まもなく100歳を目の前にする歳になってしまいました。しかし、老いたアブラハムが、すべてを諦めようとする時に、神は再び現れ、神の約束は依然として有効であると教えてくださいました。そして神は、その約束の証としてアブラハムの家の男たちに割礼を受けることを命じられました。契約と割礼のヘブライ語の表現が同じであることから、神との契約を永遠に覚えさせる神のご命令だったことが分かります。以上が今までのアブラハムに係わる筋書です。以後、神はご自分の御使いたちをアブラハムに遣わしてくださいました。今日の旧約本文は、その御使いたちとアブラハムの出会いについての物語です。私たちは今日の話を通じて、どんな教訓を得られるでしょうか?今日は寄留者を通して、訪れてくださる神について話してみたいと思います。 1.神様から遣わされた者たち。 カナン地域でアブラハムが生活していた主な場所は、現在のエルサレムから南側に30kmくらい離れているマムレ(ヘブロン)という所でした。神のご命令によってカナンに降ってきたアブラハムは、過去24年間のうちに、その地域の有名な者になっていました。彼は牧草地が足りなくて、甥と別れるほど、多くの家畜を飼っており、シンアル地域の王たちと戦って勝つほどの相当な戦力もを持っていました。神が契約してくださった土地がなくても、神が約束してくださった子供が生まれなくても、彼には現在持っている財産や権力だけで十分に意気揚々と生きることができる力がありました。そればかりか、ハガルを通して儲けた息子、イシュマエルもいましたので、相続人への心配も一安心できる状況でした。しかし、彼は相変らず神に仕えました。アブラハムは24年間、多くの失敗と試行錯誤を経験してきました。しかし、彼が偉大な信仰の父として、神に認められた理由は、自分の状況がどうであれ、彼が神の約束を覚え、信じたことにあるでしょう。私は創世記を説教して来つつ、何度もアブラハムが私たちと同じ、平凡で間違いと失敗の多い人だったと話しましたが、それでも、アブラハムが持っていた、このような神への信仰は現代を生きる私たちが、倣っていくべき良い信仰の手本になると思います。 もし、アブラハムが自分の財産と現在の状況に満足し、神の約束を軽んじ、神に仕えようとしなかったら、彼は今日の本文に現れた3人の御使いに出会うことが出来なかったはずでしょう。聖書には今日登場した3人の御使いが華麗な服を着ていたとか、多くのしもべを引き連れていたとかの話は記されていません。ただ、3人の人が彼に向かって立っていたと記してあるだけです。しかし、常に神の御言葉を待ち、神に仕えようとする心構えを持っていたアブラハムでしたので、その3人が訪れてきた時、彼らが神に遣わされた者だと気付き、すぐに彼らを迎え、持て成したのではないでしょうか? 過去のユダヤ人のラビたちは、この3人が神の天使だと信じていました。特に、ラシュというラビは、その3人が、ミカエル、ラファエル、ガブリエルという有名な天使たちだと思いました。この天使という言葉は、神のメッセンジャーという意味で、天使が現れるということは、神の御言葉が臨むこと、つまり神が直接お出でになることと同じくらいの権威がある意味だったと言われます。勿論、今日の本文を通しては、彼らが天使であるかどうかははっきり分かりません。しかし、少なくとも神の御言葉が彼らを通じて、アブラハムの所に来たということは、はっきり分かります。ところで、彼らはみすぼらしい旅人たちでした。神の尊い御言葉が通り過ぎる寄留者を通して届いたということでしょう。 2.神は寄留者の姿でお出でになる方。 聖書で寄留者とは、助けを求めている旅人、余所者として解釈される場合が多かったです。当時のメソポタミアやカナンの原住民は旅人たちを暖かく持て成したそうです。あの有名なハンムラビ法典にも、旅人への扱いについて記録されていると言われます。しかし、彼らが持て成した旅人は同じ民族や国に限る存在でした。外国人や旅人には手厚い持て成しをしなかったのが学界の定説です。彼らは何の利益にもならなかったからです。しかし、アブラハムは世の中の論理ではなく、神への奉仕の意味として3人の客を喜んで迎え、持て成しました。ところで、その客たちは、実際に神の御使いたちで、彼らは神の御言葉を持ってきたのです。我々はこれを通して、神は自ら現れる方でもありますが、通り過ぎる寄留者、余所者、弱者を通しても現れる方であるということが分かります。もし、アブラハムが彼らを迎える前に、カナン地域のどの種族から来た人なのか、どの家柄の人なのか、3人の身分を選り分けようとしたならば、彼は神からの大事な御使いたちを逃してしまったのかもしれません。しかし、アブラハムは当時のカナンで通用していた持て成しではなく、いつ神の御使いが来るか分からないという心構えで3人を招き、歓待したわけです。 今日の新約本文でイエスは、主が再臨なさって、この世をお裁きになる時のことについて教えてくださいました。主が天使たちを皆、従えて栄光に輝く座に着かれる時、正しい人たちをお呼びになり「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」と仰いました。すると、 正しい人たちが聞き返しました。「主よ、いつ我々がそうしたのでしょうか?」その時、主は「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とお答えになりました。私たちは、この物語を通して、主が貧しい隣人や旅人の姿を持って、私たちの所に訪ねて来られる方であることが分かります。ひょっとしたら、今一緒に礼拝を捧げている兄弟姉妹が、実は我々の間におられる主であるかもしれません。志免教会のご近所さんたちがイエスであるかもしれません。私たちの一番嫌いな人が、私の前に来ておられる主であるかも知れません。私たちが彼らを遠ざけ、冷遇する時、もしかしたら、私たちは主を遠ざけ、冷遇しているのかもしれません。私たちの隣人愛は判官贔屓のようなものではありません。私たちの他者へ愛は、私たちの間におられる主イエスへの愛から湧き出るべきものなのです。誰が、どんな姿で主の代わりに私たちの前に立っているか分からないからです。 3.最も不要で、憎い者を愛せよ。 多少、政治的な話になるかと思いますが、日々関係が悪化している日韓関係を例に挙げてみましょう。日本は、韓国人にとって、他の国々では感じられない様々な感情を起こさせる国です。歴史的には深い遺憾があり、文化的には一番親しみのある、微妙な国なのです。つまり、愛憎の国なのです。日本人にとって韓国はどうでしょうか?日本人の中には激しく韓国を蔑む人もいますが、一方では身の置き所のないほどに韓国を重んじ、愛してくださる方もいます。同じく、韓国人の中にも日本を蔑む人がおり、日本を大事にし、重んじる人がいます。このような日韓関係の中で、日本と韓国の教会は、真の平和のために協力関係を大事にし、過去の悲劇を省み、新しい未来を作っていくために手を携えています。私も日本の教会に仕えようという確信を持って以来、日本への盲目的な遺憾を控え、中立性を持って愛と協力に進もうと心を込めて生きています。なぜでしょうか? それは、いくら憎い相手がいると言っても、彼らから神の存在を見つけ、彼らを愛するのがイエス・キリストの御教えだからです。私は日本という国を考える時に、ここにおられる皆様、ご近所の皆様の中におられる主イエスが思い起こされ、憎むことが出来ません。日韓の教会がお互いに心を一つにして、愛しあい、仕えあうべき理由は、相手の民族と国を愛しなければならない理由は、そのような愛と協力の中にキリストがおられるからです。だから、相手を憎むことは、その中におられるキリストを憎むことと等しいことなのです。 マスコミは、いつも相手の国を中傷します。「首相が、大統領が」から始め、相手を盲目的に絶対悪のように作ってしまいます。そして人々がそのような見方で付いて来るように煽り続けます。政治家たちがそれを願っているから、わざわざ忖度しているわけです。その結果、もし、戦争でも起きたら、死ぬのは為政者や政治家ではありません。私たちの子供、親戚が、そして私たち自身が死ぬのです。それは決して主の御心ではありません。主イエスは愛と和解を望んでおられます。だから、一度でもいいので相手の立場から考えてみるべきではないでしょうか? 両国とも神様でない以上、きっとそれぞれの過ちがあるはずでしょう。が、両方ともまるで、自分が神様のようになり、互いに中傷し合い、争い合うだけです。自分の民族と国だけを大事にすることは、イエスのお教えではありません。それは帝国主義なのです。アブラハムは国と民族を問わず、寄留者を丁寧に持て成しました。そして、その寄留者を通して神の祝福を受けました。また、神は寄留者の口を通じて、アブラハムとサラが、切に願っていた息子の誕生を預言してくださいました。そして、私たち皆が知っている通りにアブラハムとサラは信仰の父と母になりました。私たちに何の役にも立たないような人を私たちの中にいる寄留者として考えていきましょう。憎い人をイエスのように扱いましょう。兄弟姉妹と隣人を愛しましょう。そんな我々の人生をこそ、神は喜ばれるでしょう。寄留者への歓待と愛を通して、主の祝福が我々に臨むでしょう。 締め括り 今日の説教を準備しながら私の過去の人生を振り返ってみました。正直、まだ心の中に遺憾の念を持っている人たちが何人かいます。未だに赦し難い人がいます。しかし、神様は今日の言葉を通して、私に仰せになります。「まだ赦せないのか?」「彼らがイエスなら、私からの寄留者ならどうする?」結局、悔い改め、赦すしかないと思いました。皆さんはいかがでしょうか? まだ赦せない、憎い、無視したい人がいますか? イエスを信じること、神の民になることは、決してたやすいことではありません。憎い人を、役に立たないと思える人を、愛さなければならないからです。しかし、その度に主イエスのことを考えましょう。イエスは神と敵だった私たちを救ってくださるために、ご自分の血潮を流され、犠牲になってくださいました。何の益にもならない貧しい者たちをわざわざ捜し回ってくださいました。これは、今日の本文でアブラハムが行なった旅人を持て成した人生と一脈通じる生き方ではないでしょうか? 今日の言葉を通して、心から赦し、自分のように愛し、キリストに倣っていく機会になることを祈ります。そのような人生を生きる時にはじめて主は「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と誉めてくださるでしょう。また、信仰の父として認められたアブラハムのように、神の祝福があるでしょう。